2012年2月13日月曜日

「なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造」山本七平


第4章「変革なき組織的家族社会の深層」に興味があって購入。
「日本には『個』の組織化である『民主主義』の基礎であるべき、組織(システム)という概念がない。組織という概念は、すべて『合理的に組み立てられた対象』を意味する。それは常に分解可能であり、ばらばらの部品にして再構築できる対象であり、同時に、その部品は等量・等質で常に交換可能のはずである。

アメリカにおいては、会社も組合もあくまで組織(システム)であって家族(ファミリー)ではない。その構成員を部品の如くに扱い、不良な部品は平気で排除し、時にはエンジンの取替えに等しいことも平気でやる。
たとえば日本において、東芝がソニーの優秀なスタッフを全員引き抜いたため、ソニーが倒産するということはあり得ない。日本における最も米国的といわれる企業も、その実体は「組織」ではなく、一種、擬制の血縁集団ともいうべき「組織的家族」とでも名づくべき家族なのである。

このことは解雇という問題に最もよく表れる。日本人には『正当解雇』という概念はなく、社会全体が『解雇は処罰』とうけとり、社会は解雇された者を処罰された者とみなす。従って処罰でない解雇はすべて不当解雇である。

日本でも『組織の歯車』とか『管理社会の重圧』とか『人間性の阻害』とかいわれるが、実際に『組織の歯車=部品』で交換可能・廃棄取替可能な『組織の一員』は日本にはいないし、『重圧』とか『阻害』とかいう言葉も、実は、組織内での"人間関係"という心理的重圧のことであって、それは組織の問題というより、むしろ『家族内の人間関係』嫁姑問題に似ている。

明治以降の、この組織的家族の日本における代表的集団は、日本軍であった。一見、組織の如くに見えたが、内実は組織ではない。従って組織なら当然に実行できる『部品の交換』さえ、不良部品のためその全部が崩壊の寸前においてさえ実行できない。インパールのような徹底的敗戦の責任者も処罰されることはない。もしそれをすれば、全軍が崩壊してしまうからで、この世界にも正当解雇はなかった。

この組織的家族は、一種の二重組織であり、従って解体が不可能に近いから、『運命共同体』に転化し、そのプラスの面が出た場合は恐るべき強さと高能率を発揮しえ、時には、宗教団体と似た様相になる。

日本軍の特徴として、同一組織・同一装備の師団でも、その能力に大きな差があったことは、指揮官への教祖的信仰の有無が作用したからだといえる。

日本的組織は組織として機能しなくなっても解体できず、組織を維持する能力しかなく、組織として他に作用する力を失っても、そのまま存続していくという結果になる。日本の組織は壊滅の直前まで厳然と存続し、一種の点滴によって、社会に負担をかけつつも存続しえる。だがその構成員は実質的には失業状態である。
日本軍も倒産企業も、それが倒れる直前まで厳然として存続し、立派に機能しているようにみえ、この実体は常に”粉飾戦果”、”粉飾決算”で隠されていて、わからない。

組織は常に目的をもつ。そして目的を持つことは、その目的に対応する正当化が要請される。従って組織自体は何ら絶対性をもたず、その存続自体を目的として存続することは許されない。
一方家族は、目的を持つ組織ではないから、何らかの目的に対応するための正当化を必要としない。それは自らが存続するためにだけ機能すればそれで充分な存在である。従って、自らの崩壊を防ぐことが第一の目的である。

組織的家族集団は、何らかの客観的公理などに基づく権威を主張してはならない。公的な一つの基準に基づいて公平に裁定を下すなら、その者は権力的という非難のもとに、調和を乱す者として排除される。従って、最も非権威的な者が指導者になる。

自由の前提としては『自由なる思考』と『自由なる討論』を行いえる権利である。『自由意志に基づく各人の決断と選択』を基本とする状態はそれ以後のことである。この前提がない社会にはそれが資本主義であれ社会主義であれ、自由は存在しえない。ただこれは、おそらく、現在の日本では絶対に通用しない考え方なのである。

以前、キッシンジャーが『日本人記者はオフレコの約束を破る』といった意味の発言をしている。当時の新聞を読むと、彼が何をいっているのか記者にも編集者にもわかっていないように思われる。彼は『自由討論』の権利、すなわち人間のもつ基本的権利の一つを侵害していると言っているわけである。
日本は、事故の発想を内心で自己規制し、その規制された発想を、調和を考慮しつつ、相手によって自己規制しつつ公表する世界である。

文化がもつ基本的問題なので、日本的組織の問題への根本的解決方法はないし、そのこと自体は解決の対象ではない。あとは、いかなる合理的な対処の方法があるかという方法論の模索だけが残された問題であろう。
簡単に言えば、植物組織をいかにして安楽死させ、その構成員を別組織に調和的に吸収し、同時に、その植物組織の遺産をどのように継承して、新しい組織的家族に相続させるかという問題である。