今月8日、ノーベル医学・生理学賞受賞が決まった京都大学・山中伸弥教授。生命科学の常識を覆し、体のさまざまな組織や臓器になるとされる「iPS細胞」を開発してからわずか6年という異例の速さでの受賞。挫折と失敗を繰り返しながら研究を続けてきた
山中教授のNHKスペシャルが2012年10月21日(日)午後9時00分~9時58分に放送されるので、これは見なければ。
一方で、東京大は19日、iPS細胞(人工多能性幹細胞)の臨床応用の大半を虚偽と認めた同大病院特任研究員の森口尚史氏(48)を懲戒解雇処分にした。
森口氏の事件がきっかけになって、積読のままだった『論文捏造』(村松秀)を読み始めたら面白くて止められなくなった。
『論文捏造』(村松秀)は、面白い。お薦めです。ベル研究所でヤン・ヘンドリック・シェーンが起こした超伝導に関する空前の論文捏造。研究チームのリーダー、共著者の責任の範囲。科学ジャーナルのいい加減さ。大学と民間研究所の違い。物理において「嘘」を証明することの難しさ。残された課題は多い。
シェーンの論文は2年半の間に『ネイチャー』に7本、『サイエンス』に9本掲載。科学ジャーナルは、実は再現性も正確性も全く保証していない。編集者にその能力はない。実は、レフェリーの一人は疑問を編集者に投げかけていたのだが、レフェリーの意見は無視されてそのままシェーンの論文は掲載された。他誌との競争の中、センセーショナルな論文をえり分け、急いで掲載する流れが明らかにある。
『ネイチャー』『サイエンス』に論文が掲載されることは科学者にとって名誉で大きな実績として認知される。この実績は科学者の評価基準となり、より魅力的なポストにつくのに不可欠。研究施設側からも評価の目安になる。国などの公的な研究費の審査に際しても大変重要な価値として認められることになる。超一流雑誌に掲載されれば、それが担保のように次のポストや研究費獲得につながるわけだが、実はその担保には科学的な裏づけが取られていなかった。雑誌がインパクトファクターを重要視するあまり、内容よりもとにかくセンセーショナルな論文を求めたがり、チェックも緩いままに掲載してしまう傾向がある。
日本が世界に誇る有機物超伝導の大家、東北大学大学院の谷垣勝巳教授の有機物超伝導は有機物にアルカリ金属をごく僅かに混ぜる手法。『ネイチャー』に掲載された論文で超伝導が実現した温度は、マイナス240度(33K)。一方、シェーンの手法は有機物の上に薄い酸化アルミの膜を載せるというもの。シェーンの方法は世界中の研究者が誰も再現できなかった。酸化膜を載せるのはトランジスタの世界では常識だったが有機物の人にはなじみがない。世界の研究者は、有機物の上に酸化膜をつくる自分の技術が劣っていて、ベル研究所ならそれができるのだろうと思っていた。一方、ベル研内では、シェーンがドイツのコンスタンツ大学で作っていたと思っており、コンスタンツ大学には魔法のような装置があるのだろうと思われていた。普通なら、論文の「間違い」を疑われるが、ベル研究所、しかも第一人者のバートラム・バトログが参加していたことが大きかった。「科学の世界では嘘ということを完全に証明することは難しい」。否定するにも詰めが甘かったらベル研から訴訟をおこされて研究者生命を断たれかねない。
「科学者は正しいことを言う。科学的真実のみを正しく報告する。そうした性善説に基づいた科学者同士の『信頼』が、科学社会には存在している。その社会の基本ルールを逸脱している人間がいることを、前提として考えていない」
実はベル研内でもモンローが内部告発をしているが、大スターのシェーンを守ろうとして、本腰を入れて調査をしていない。
ベル研も昔の姿からどんどん変質(劣化?)していますね。特に事件が起きた当時はITバブル崩壊で親会社のルーセントテクノロジーが苦境にあり、ベル研の研究者も短期的に成果を出すように強いプレッシャーを感じていたようです。ベル研の偉い人で、シェーン研究とは何の関係もない人が、シェーンの研究の特許申請に名を連ねたりしている。
結局、プリンストンの物理学者リディア・ゾーンの留守電にベル研の若い研究者から「これはあなたへの宿題です。シェーンのふたつの論文をよく見てください」という謎のメッセージが吹き込まれたことがきっかけになってシェーンの捏造が発覚していくことになる。
ベル研を解雇された後、シェーンは消息を絶っていた。村松さんはシェーンが南ドイツの中小企業で働いていることをつきとめ、間借りをしている家まで行って、メディアとして事件後初のインタビューを試みたが断られている。
アメリカ研究公正局(ORI)。バイオ研究で不正がないかの調査裁定機関。NIHから発展的独立。バイオの場合、物理よりも不正が多く、一般市民が捏造の犠牲者になってしまう可能性があることから必要に迫られてORIが作られた。
ORIは誰かの研究に捏造や盗作などの不正の告発を受け付けて綿密な調査摘発を行う。年間200件の告発があり30~40が調査対象に。不正と判断されるのは10~15件ほど。不正が認められた場合、数年程度の公的機関からの研究費配布を禁じられ、実質的にキャリアが閉ざされる。
物理学会にはORIのような告発を受け付ける組織は存在しない。「不正行為はバイオ関係の研究で生じるもので、物理学のようなハードサイエンスでは起こりえないという感覚が一貫してある。仮説を立証していく過程が直接的で再現性もかなり厳密に必要となるので捏造など起こりえないという感覚」
「物理学の世界に実際にORIのような組織ができたら研究者達は非常に窮屈に感じ、研究も自由さを失うのではないか、結果が見えやすいものしか求められなくなっていくのではないか、発想豊かな斬新な研究や挑戦的な良い研究成果を得ることが難しくなるのではないかと危惧する」
「科学界は自由闊達な空気、学問の自由を保障する開かれた社会を礎に発展を遂げてきた。規制や取締りの強化には疑問もある。戦争や全体主義の状況下で学問や科学は規制によって歪められた苦々しい過去がある。だからこそ先人達は学問の自由の意義を声高に叫び、その自由を享受しようとしてきた」