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2018年3月11日日曜日

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(2017)

非常に学ぶことの多い本でした。お勧めです。

「ストーリーにおいて、因果関係を言語で表現するときに、原因と結果とを結ぶ接続語句には「(だ)から」「ので」「ため(に)」などがあります」

A: 道内の東側で高気圧が停滞(原因)
B: 「高気圧が停滞すると前線の動きが鈍くなるはず」(一般論)
C: 長期間にわたって強い雨が降った(結果)

このような記述が成立し、理解されるためには、蓋然性のmust(「はずである」)が「一般論」として受け入れられていなければならない。

人為が介在しない物理的な因果関係であれば話はシンプルで必然的。

結果に人間の行動が介在している場合の因果関係では、人間が外界からの刺激に対して反応するとき、往々にしてそこに感情が介在する。極端な例では暴力事件において衝動に駆られた容疑者が〈かっとなって〉反応してしまうケースがある。

米国の臨床心理学者アルバート・エリスは、人間の感情は次のようにして生まれるという。

A: activating event きっかけ
B: belief 信念
C: consequence 結果

できごとが人にある感情を抱かせるのは、そもそもその人があらかじめある種の信念を持っているからだという(beliefは、自分が自覚せずに持っている考えのようなものまで広くさす)。

同じできごとを前にして、人によってリアクションが違う理由が、ここにある。人によって抱いている信念が違うからだ。

Bの一般論は、じつのところ、「人は私が欲するとおりに行動するべきである」というふうに抽象化することができる。

歌手を刺してしまった人も、体罰をしてしまった教師も、駅で列に割り込みされて〈かっと〉なった人も、「人は私が欲するとおりに行動するべきである」という一般論を抱いているから〈かっとなって〉しまったのだとわかる。

「人は私が欲するとおりに行動するべきである」は信念としては不適切であり、現実世界には妥当しない。人間はしばしばこのような不適切な一般論を、知らず知らず抱いてしまっている。そしてそのことの自覚がない。

人間は、「「自分は自分の意志に従って環境を変えることができるし、そうするべきである」(must)という一般論に、しばしばとらわれてしまいます。いわば「コントロール幻想」です」

「じっさいには、他者や環境や状況は、いつでも操作できるとは限らない。その当たり前のことが明らかになっただけで、人はネガティブな反応を示してしまいます。人間には操作できる対象とできない対象があります。同じ対象でも、操作できるときとできないときがあります。たとえ対象が自分が望んだとおりの行動をしたとしても、それはただの偶然か、その対象自体の自発的行動の結果であって、こちらの働きかけの結果ではない、ということだってよくあります」

「「させる」という使役表現や、命令形という動詞の使い方は、こういった人間の「コントロール幻想」という不適切な信念と関係があります。あいつの発言は不愉快なので、黙らせたい。夫婦(恋人)なのだから、自分の気持ちを、説明しないでもわかってくれるべきだ。自分の子どもなのだから、こうなってほしい、いや、なるべきだ。こういった思考は、コントロール幻想そのものです」

〈人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである〉(エピクテトス『提容』)

事柄は自分の管轄外だけれど、事柄に関する考えは自分の管轄内だから、後者のほうは制御可能であり、そこさえ制御してしまえば〈不安〉のない状態で〈事柄〉に対処することができる。

「自分の過去のストーリーメイキングを捨てないと、つぎが開けない」

・感情につき動かされて行動することは選択肢をみずから手放すことであり、「自由」からもっとも遠い
・世界でひとつだけ選択可能なものは、できごとにたいする自分の態度である
・人はストーリーを理解しようとするとき、登場人物の信念や目的を推測・解釈している
・人はストーリーや世界のなかで多くのことを決めつけて生きている
・自分の生きる指針(ライフストーリーメイキング)のせいで苦しむこともある
・従来の生きる指針を捨てるのは先の保証がなく、崖から落ちるくらい怖いが、そうする自由はつねにある

「僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知しています。そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。物語る動物としては、自分や他人のストーリーに押しつぶされたり、自分のストーリーで人を押しつぶしたりせずに、生きていきたいものです」

読書案内
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』 高橋和巳
『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」強迫事件の全真相』 渡邊博史
『女子をこじらせて』 雨宮まみ
『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』 豊島ミホ
『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』 頭木弘樹
『可能世界・人工知能・物語理論』 マリー=ロール・ライアン
『フィクションとディクション』『物語のディスクール』『物語の詩学』 ジュネット 
『物語における読者』 ウンベルト・エーコ
『批評の解剖』 ノースロップ・フライ
『ナラトロジー入門』 橋本陽介
『物語の森へ』 マルティネス+シェッフェル
『関連性理論』 スペルベル+ウィルソン
『メンタル・スペース』 フォコニエ
『フィクションの修辞学』 ブース
『ミメーシス』 アウエルバッハ
『言語のざわめき』 バルト
『小説における時間と時空間の諸形式』ミハイル・バフチン
『フィクションとは何か』 ウォルトン
『虚構世界の存在論』 三浦俊彦
『サイバネティックス』 ウィーナー
『メタマジック・ゲーム』 ホフスタッター
『知るということ』 渡辺慧
『行為としての読書』 イーザー
『偶然の本質』 ケストラー
『偶然性の問題』 九鬼周造
『生きるよすがとしての神話』キャンベル
『エゴ・トンネル』 メッツィンガー
『他者のような自己自身』リクール
『デカルトの誤り』 ダマシオ
『知恵の樹』 マトゥラーナ+バレーラ
『ユーザーイリュージョン』 ノーレットランダーシュ
『一般システム理論』 ベルタランフィ
『ゲシュタルトクライス』 ヴァイツゼッカー
『生物から見た世界』 ユクスキュル
『我と汝 対話』 ブーバー
『善の研究』 西田幾多郎
『無心ということ』 鈴木大拙
『暗黙知の次元』 ポランニー
『内臓とこころ』 三木成夫
『表現学の基礎理論』 クラーゲス
『仏教思想のゼロポイント』 魚川祐司
『望郷と海』 石原吉郎
『生きる勇気』 ティリッヒ
『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 二村ヒトシ


2016年3月26日土曜日

木田元『ハイデガーの思想』

木田元『ハイデガーの思想』によると、ハイデガーの『存在と時間』は本来書く予定だった本の「上巻」に当たるそうだ。しかもそれは本来のプログラムの半分も満たしていない。「下巻」はついに出版されなかった。

「どんな本でも、たいてい肝腎なことは後まわしにされるものである。『存在と時間』も、その梗概によれば、いわゆる本論はすべて「下巻」にまわされており、「上巻」はその本論を展開するための準備作業に終始している」

『存在と時間』の不思議な影響力は、「この本の持つ一種独特の雰囲気と、それを伝えるこれまた独自な言語表現のスタイルから発している...(略)。人々は、第一次大戦敗戦後の雰囲気が『存在と時間』上巻に凝縮されて現れているのを感じとり、それに強い衝撃を受けたのであろう」

第一次大戦敗戦の1918年から1927年までの十年間にドイツ語圏で出された一群の本に共通する性格からこの時代の独特の気分を浮かび上がらせることができる。一群の本とは、エルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』、オズワルト・シュペングラーの『西洋の没落』第一巻、カール・バルトの『ロマ書』、フランツ・ローゼンツヴァイクの『救済の星』三巻、アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』二巻、それにハイデガー『存在と時間』上巻。

これにカール・クラウスの『人類最後の日』とルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、ジョルジ・ルカーチの『歴史と階級意識』を加えてもとよい、と。

これらの本に共通する特徴としてスタイナーが指摘するのは、一つはこれらがすべて大冊だということ。次に、すべてなんらかの意味で予言的・ユートピア的著作だということ。ある意味で黙示録的だということ。「キリスト教において「黙示録」と呼ばれるのは、現世の終末と来るべき世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことである」「こうした特質は暴力的性格と結びつく傾向がある。「これはすべて暴力的な本なのである」と、スタイナーは主張する。しかも、それは徹底した否定を目指す暴力であり、弁証法的に肯定を生み出すようなヘーゲル的否定ではない」

ハイデガーは『存在と時間』で人間のことを〈現存在〉という妙な言葉で呼んでいる。おそらく彼には〈人〉という言葉は多義的で曖昧な言葉なのだろう。そこでこの言葉を避け、人間はあくまで〈存在の意味〉が問われる〈現場〉としてのみ問題にされるという意味で〈現存在〉という言葉を選んだようだ。

「『存在と時間』の究極の狙いは、〈存在とは何か〉という問いを問うことにある」

「ハイデガーによれば、この問いは実は、プラトン、アリストテレス以来西洋哲学がつねに問い続けてきた根本の問いなのであり、したがって、いまこの問いを問うことは、「存在への問いをあからさまに反復する」ことなのである」

〈存在する〉というのはどういう意味かを問うこと。〈在るとされるあらゆるもの〉をそのように〈在るもの〉たらしめている〈在る〉とはどういうことかを問うことである。

中世のスコラ哲学者たちがさまざまに試みた〈神の存在証明〉は、神が存在するかしないを問題にしようというものではない。「彼らにとっては神が存在するのは分かりきったことなのであって、これを論理的にどう証明してみせるかが問題なのである」

〈神はもっとも完全なる存在者である。ということは、神はすべての肯定的な規定(「神は全能である」「神は無限である」・・・)をそのうちにふくむ存在者だということである。ところで、「存在する」ということも一つの肯定的規定である。神は当然この規定をも含んでいる。したがって、神は存在する〉

この言葉のまやかしのような神の存在の〈存在論的証明〉は、11世紀にアンセルムスによって提唱され、13世紀にトマス・アクィナスによって否定され、17世紀にデカルトによって復興され、18世紀にカントによって否認され、19世紀初頭再びヘーゲルによって承認されるという興味深い歴史をもつ。

「神秘的なのは、世界が「いかに」あるかではなく、世界がある「ということ」である。」 ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

「私がこの経験をするとき私は世界の存在に驚く、と言うことである。その場合私は、〈何かが存在するとはなんと不思議なことだろうか〉とか、〈世界が存在するとはなんと不思議なことだろう〉といった言い方をしたくなる」 ウィトゲンシュタイン

「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、〈存在者が存在する〉という驚異のなかの驚異を経験するのである。」 ハイデガー(『形而上学とは何か』)

「存在は存在者ではない」
「現存在が存在を了解するときのみ、存在はある(エス・ギプト)。」
「存在は了解のうちにある(エス・ギプト)。」
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は〈ある(エス・ギプト)〉。」

〈ある(エス・ギプト)〉は〈存在する(ザイン)〉と言う意味ではない。ドイツ語の(エス・ギプト)は英語で言えばis givenですかね。

一般に動物は、狭い現在を生きることしかできず、したがって現に与えられている環境に閉じ込められることになる。そこには過去も未来もない。ところが人間は、記憶や予期の働きによって、過去や未来という次元を開くことができる。

「人間は、動物のように自分の生きている環境構造をそれしかないものとして受けとるのではなく、他にもありうる環境構造の可能な一つとして捉え、いわばそこから少し身を引き離すことができるようになる」

「このような高次の機能によって、現存在が現に与えられている環境から身を引き離すその事態を、ハイデガーは〈超越〉と呼んでいる。現存在は、〈生物学的環境〉から〈世界〉へと超越するのである」

「ハイデガーが人間のことを〈現存在(ダーザイン)〉という妙な言葉で呼ぶのも、人間こそ、〈存在(ザイン)〉という視点の設定が行われるその〈現場(ダー)〉だからにほかならない」

もともとフッサールは数学から哲学に転向した人なので哲学史的な素養に欠けており、そのためもあって自分の提唱した現象学を史上かつてない新たな思想だと考えていたのであるが、哲学史家ハイデガーから見れば、フッサールの現象学も西洋哲学の伝統の線上に位置し、その伝統の現代的更新にほかならない

ハイデガーは先生のフッサールが無自覚におこなった哲学的企てを意識的に引き受けなおし、現象学を西洋哲学の伝統のうちに捉えなおそうと考えていたのである。

ハイデガーの独自の哲学史観は、アリストテレスをはじめとする哲学の古典の精緻な読解作業のなかで形成されたものである。ハイデガーはもともと歴史研究、ことにアリストテレス研究から出発した。