2019年11月21日木曜日

ファイナンスの重要な論文を振り返る

最近はファイナンス(証券投資論)の重要な論文がネットで読めるようになっていて、良い時代になったなあと実感します。過去の論文を調べたついでに、ここに忘備録としてまとめておきます。論文のタイトルにリンクが張ってあります。

1990年のノーベル経済学賞をシャープ、ミラーとともに受賞したマーコウィッツの1952年の論文も無料で読めますね。 "Portfolio Selection" Harry Markowitz[1952]

Sharpeの1964年の有名なCAPMの論文、今は無料で読めます。PDFというボタンを押せばダウンロードできます。 ”CAPITAL ASSET PRICES: A THEORY OF MARKET EQUILIBRIUM UNDER CONDITIONS OF RISK”

マーコウィッツ[1952]の平均分散法とシャープ[1964]、Lintner[1965]のCAPMがファイナンスのポートフォリオ理論の先駆けですね。CAPMは均衡理論。CAPMは様々な強い制約の下、均衡状態で成立する。均衡なら無裁定だが、逆は言えない。ファイナンスのアカデミックな世界では「CAPM、おまえはもう死んでいる(CAPM is dead.)」と言われるわけですが。

ブラックのゼロ・ベータ・ポートフォリオの論文。
"Capital Market Equilibrium with Restricted Borrowing" Fischer Black[1972]

マートンの多期間CAPM "An Intertemporal Capital Asset Pricing Model"  [1973]

ファイナンスにおける金字塔。ブラック=ショールズによるオプションのプライシング。 "The Pricing of Options and Corporate Liabilities" Fischer Black and Myron Scholes[1973]

伊藤の補題がおそらく初めてファイナンスの論文で使われたマートンの重要な論文。
"Theory of Rational Option Pricing" Robert C. Merton[1973]

しかし、ICAPMとオプションのプライシングという二つの重要な論文を1973年に同時に発表するとは、やはりマートンはとてつもない天才ですねえ。

CAPMに代わるものとして提案されたロスの裁定価格理論。複数のリスク・ファクターを考えることができるためCAPMよりも一般的。マーケット・ポートフォリオの特定も不要。 "The Arbitrage Theory of Capital Asset Pricing" STEPHEN A. ROSS [1976]

実務界にも大きな影響を与えた、ファーマ=フレンチの3ファクター・モデル。 "Common risk factors in the returns on stocks and bonds" Eugene F. Fama and Kenneth R. French [1993]

このあたりの証券投資理論の歴史についての読み物としては『証券投資の思想革命』がお勧めです。残念ながら絶版ですが、地元の図書館にあると思うので借りて読みましょう。 『証券投資の思想革命―ウォール街を変えたノーベル賞経済学者たち』 ピーター・L. バーンスタイン

英語が苦にならなければ、これもお勧めです。資産運用の歴史を概観するのによい読み物です。書いたのはブラックロックのKahn。

2019年10月13日日曜日

『平成の経済』

平成の経済を一冊にまとめるという困難な作業を遂行できたのは大したもの。小峰隆夫氏だからできたと言える。
「驚くべきは(バブルの)その規模である。80年代後半のバブル期には、86年から89年にかけての4年間には、毎年、名目GDPに匹敵するか、またはそれ以上のキャピタル・ゲインが生まれているのである」
「例えば、87年の場合、株式で84兆円、土地で413兆円、合計497兆円ものキャピタル・ゲインが発生している。これは同年の名目GDPの実に1.4倍である」

公的資金を投入して不良債権を一気に処理するという1992年8月の宮澤構想が実現していれば、その後の日本経済もずいぶんと違った姿になったと思うと、残念でしかたがない。

1995年に住専を処理するために公的資金6850億円の投入が決まった。この金額はその後の公的資金の投入が数十兆に上ったことを考えると全く小さなものだが、国会などで強い批判を浴び、政府・政治家の大きなトラウマとして残り、公的資金投入はほとんどタブーとなった。

三洋証券の倒産は二つの大きなショックを金融界に与えた。ひとつは、金融機関は無条件で救済されるわけではないことが確認されたこと。もうひとつは、戦後初めてインターバンク・コール市場でデフォルトが起きたこと。

三洋証券の経営破綻により、三洋証券が群馬中央信用金庫から借りていた10億円がデフォルトとなり、疑心暗鬼に陥ったコール市場は大混乱となった。これが次の北海道拓殖銀行の破綻を招くことになる。

拓銀は不動産担保融資に積極的だったが、バブル崩壊でこれらが不良債権化し経営難になった。預金の解約や資金の流出が続いていたのでコール市場からの調達を積極化していたが、三洋証券のデフォルトによりコール市場からの調達が困難になり日銀への準備預金が不足する事態になった。資産の一部を北洋銀行に営業譲渡したうえで1年以内に清算することが決まり、拓銀は消滅した。

拓銀が破綻した一週間後、四大証券の一つであった山一證券が廃業した。山一は違法である運用利回り保証や損失補填を行っており、その結果生じた簿外債務を子会社に移管して表面化しないように操作していた(いわゆる「飛ばし」)。

山一證券は、1964年から65年にかけての証券恐慌の際に日銀から特別融資を受けた経験があるが、97年の場合は不正な利益供与が悪質であるとされ日銀からの支援を受けることができず、自主廃業となった。

最後の社長となった野澤正平氏は、廃業を発表する記者会見で、当初は淡々と質問に答えていたが、記者からの「社員にはどう説明するのですか」という質問に耐え切れず、号泣しながら次のように述べた。

「私ら(経営陣)が悪いのであって、社員は悪くありません。善良で、能力のある、社員の皆に申し訳なく思っています。一人でも二人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして私からもお願いいたします」

それまで金融機関の不祥事に際しては、責任逃れに終始する経営トップが多かった中で、誠実に謝罪し、社員の今後を憂えた会見は大きな話題となり、その映像は繰り返し放送されることになる。

以上、『平成の経済』小峰隆夫からの引用でした。まだ半分も終わってないけど、既におなか一杯感。ここから小泉構造改革で、ここも面白そう。

たしか野澤社長も社長になるまで飛ばしのことは知らされていなかったので、野澤社長も悪くないんだよね。山一の営業基盤は日本のリテール市場に進出しようとしていたメリルリンチが引き継いだのだけれど、結局うまくいかずメリルは日本のリテールから撤退。

竹中・吉川論争

経済財政諮問会議
2005年12月26日
議事録

2006年2月1日
議事録

「衆議院では内閣不信任案を提出することができ、これが可決されると、首相は国会を解散するか内閣が総辞職するかの選択を迫られる。しかし、参議院では不信任案は提出できない。したがって参院で野党が多数を占めても直ちに政権が揺らぐわけではない」

「予算については、衆議院が先議することになっており、しかも仮に参議院が否決しても、衆議院の議決が優先される。したがってここでも参院で野党が多数を占めていても支障はない。と言うか、予算に関しては、衆議院優先の原則がある限りは、そもそも参議院で予算を審議する意味はあるのかという本質的な疑問さえ生まれる」

「問題は法案の審議や国会同意人事である。これについては、衆参で議決が異なった場合でも、衆議院で3分の2以上の再可決があれば衆議院の議決が成立する。要するに、衆議院で与党が3分の2以上にを占めていれば、仮にねじれ現象が起きても、それほど大きな問題にはならない。しかし、衆議院で与党が3分の2に達していない状態で参議院が野党多数になると、いわば「真正ねじれ現象」となり、法案審議や同意人事で参議院が事実上の「拒否権」を持つこととなるので、議会運営は極度に難しくなる」

「予算に関しても、予算案そのものは衆議院優先で処理できたとしても、予算関連法案を参議院で否決されてしまうと、予算の執行ができなくなってしまう。2007年のねじれ現象は、この真正ねじれ現象であったため大きな問題となったのである」

「言うまでもなく、社会保障の改革は喫緊の課題である。世界一の高齢社会となる日本では、今後、年金、医療、介護などの社会保障給費が継続的に増加していく。これを放置していると、財政を圧迫するだけでなく、社会保障制度そのものが維持不可能になってしまう」

「このマイナス金利政策の評価はというと、総じて評判が悪かった」

理由の第一は、肝心の景気刺激効果に乏しかったこと。第二は、金融機関の収益に悪影響を及ぼしたこと。第三は、黒田総裁が直前まで「マイナス金利は考えていない」と発言していたのに実行したため、総裁発言に対する信頼感を低めた。第四は、インフレ・マインドを高めるどころか、逆にデフレ・マインドを強めてしまったこと。多くの国民は「マイナス金利は貯金が減る」「マイナス金利という聞いたことのないような政策をとら開ければならないほど日本の経済状態は悪い」と感じ、かえって将来不安を強めてしまった。

「マイナス金利は、サプライズをもたらしたものの、景気浮揚、デフレ脱却効果はほとんどなかったように思われる」

小峰氏も指摘するように、マイナス金利には景気浮揚、デフレ脱却効果はほとんどなくて、逆に経済にネガティブな効果が多いので、早く止めればいいのだけれど、そういうのを止められないでダラダラと続けてしまうのは、とても日本的ですね。

当初うまく機能したように見えた異次元金融緩和手法が次第にうまく機能しなくなって、黒田日銀の金融政策も変遷していった。予想外の思い切った政策をアナウンスすることによって市場を動かす「サプライズ型」の政策手法の限界が現れてきた。

「そもそもアベノミクスは、アナウンスメント効果で始まった」

「まだ何も政策を打たないうちから円レートは下落し、株価が上昇するという効果が表れた」

これは逆に言うと、政策で円安・株高になったのではないということですね。

「こうしたサプライズ型の政策手法が成功するためには、市場が驚くようなサプライズを次々に繰り出す必要がある。しかし、前述のようにマイナス金利政策は、サプライズはもたらしたものの、市場の評価は得られず、逆にデフレ・マインドを強めてしまったのではないかと思われる」

「第二に、強いコミットメントで当局の意欲を強調するという手法も限界になってきた」。インフレターゲットを持つ中央銀行は珍しくないが、その実現をピンポイントの時期を明示して実行する例は見られない。思惑通り動かない経済が日銀の手足を縛った。マイナス金利は無理を承知でひねり出した措置。

「第三に、当初は円安が経済パフォーマンスの好転をもたらしたが、次第にその限界が明らかになってきた」。円安による物価上昇、企業収益改善は、円安が進行するときにだけ現れる。このメカニズムを続けるには円安が進行し続けなければならないが当然ながらそれは不可能。円安の効果は本質的に短期的。

「また、企業が円安による収益の増大を事業規模の拡大に結び付けなかったため、景気拡大のメカニズムが途切れてしまった」。2013年度の輸出数量はわずか1%の増加にとどまったが、これは企業が販売価格を下げなかったから。

「企業は円安による企業収益の改善は、自らの実力ではなく、短期的な現象だということを自覚している」。さらに企業は国内で生産して輸出する時代ではなく、消費地に近い現地生産を増やす時代と認識しており、収益が増えたからといって国内の設備を増強したり、賃金を引き上げたりしなかった。

2016年9月に日銀は総括的検証を行って、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」と呼ばれる新たな枠組みを導入した。これが必要となった背景は明らか。それは①異次元金融緩和が実際に効果を現さず、2年で2%という目標を達成できなかったこと、②巨額の国債購入が物理的に限界に達する(買う国債がなくなる)恐れが出てきたこと、③マイナス金利の効果がそれほどでもなく、副作用が目立つようになったことなどである。

「この金融政策の新たな枠組みは、かなり折衷的なものとなっているので、その方向感覚をつかむのが難しく、その実現性と効果についても不透明な点が多い」

「まず、長期金利をコントロールすることは、可能なのか、可能であったとしても望ましい政策なのかという疑問がある」。①そもそも望ましい金利水準を見つけられない、②相当無理をしないとコントロールできない、③市場の期待についての情報が得られなくなる、など、やらないほうが良い政策の可能性。第2は、これは金融緩和策を強化したものなのか、逆に出口に向かい始めたものなのかが分かりにくいことだ」

小峰氏は、金融政策は既に方向転換して、出口に向かい始めたと判断している。既に金融政策の「異例な部分を削る」というプロセスは徐々に進行していると考えられる。

アベノミクスが十分取り組んでこなかった政策課題の最たるものが財政の再建で、その鍵を握るのが社会保障問題への対応。

ストックの赤字の名目GDP比率が発散するか否かが決定的に重要で、それは二つの要因で決まる。一つは「プライマリ・バランス(基礎的財政収支)」の状況であり、もう一つは、名目成長率と長期金利の相対関係である。

日本の財政赤字は先進国中最悪の状態であり、高齢化も世界有数レベル。財政再建のためには、歳入を増やすか歳出を削るしかない。消費税を引き上げるか社会保障支出を減らすしかないが、国民が嫌がるのは明らかで、政治家は国民の考えを反映しようとするので、民主主義の失敗状態に日本はある。

「総理は伊勢志摩サミットで、G7首脳に対して、世界経済はリーマン・ショック前と同じほど脆弱な状態にあると説明した。これで消費税率引き上げの先送りは説明できるというのが総理の考えだったようだ」

「しかし、この考えは他の首脳には共有されず、この時の資料は無理にリーマン・ショック前の状況に近いようなものを準備したとして、多くのエコノミストから批判を浴びている」

これは、世界に恥をさらして恥ずかしかったですねえ。

「軽減税率の導入にはほぼ全ての経済学者が反対している。その最大の反対理由は「公平性のための政策としては非効率的だ」ということである」

「国民から政策運営の負託を受けた政治家は、単に世論に迎合するのではなく、時には世論を説得して、長期的な道を誤らないようにする責務がある。軽減税率の採用は、政治家がその責務を放棄したように私には見える」

今は、世論に迎合する政治家ばかりになってしまいましたねえ。日本の政治が劣化していることを示していますね。

「日本はいち早く、米の離脱で崩壊しかけていたTPPを立て直し、アメリカ抜きの11か国によるTPP11をまとめるべく、その先頭に立ってきた」「日本がこのような多国間交渉にリーダーシップを発揮し、そのとりまとめに成功したことは画期的な成果だと言える」

これは、本当に素晴らしかったです。

「日本はさらに、RCEPの合意を目指している。これはASEAN、中国、インドなどを含む巨大な自由貿易圏構想であり、これが誕生すればアメリカの保護主義がさらに孤立することになり、アメリカの方針転換を促す力になるだろう」

アベノミクスの特徴の第一は、視野が短期的なこと、第二は、国の意思が経済を先導するという姿勢が強いこと、第三は、コスト先送り型ということ。「今後、短期志向による経済成果が息切れしてきた時、アベノミクスの真価が問われることになるだろう」

次のような方向でアベノミクスを再構築すべき。第一に、マクロ経済の政策目標と政策手段の関係を見直すべき。第二に、政策運営の視点を、短期的な非常時対応型から、長期的な構造改革型へシフトさせるべき。第三に、政策の内容だけでなく、その政策決定のプロセスの改革も必要。

2019年8月25日日曜日

『市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』

竹中平蔵のことはよく知らなかったのだけれど、ここまでひどいとは…

「結局、金融行政の最高責任者だった竹中が果たした役割は、ウォール街の雄であるゴールドマン・サックスを日本に呼び込むことだったのである」
三井住友とゴールドマンの取引も不可解。社内の反対を押しきって西川頭取が独断で決めたらしいけれど。

慶応の池尾先生は、通称「竹中プラン」の当初の特命チームに招かれていたが、リソースの増強のないまま不良債権処理を進めようとする竹中の意見を聞いて辞退している。さすがですね。

池尾「それなら柳澤前大臣がやった以上のことはできないと考えた。竹中さんは『政治的にどう打ち出すかを考えているので』という言い方だった。私は、そういうものを経済政策だとは思わないので、それであれば辞めますと言ったのです」

竹中は処女作『研究開発と設備投資の経済学』で鈴木和志との共著論文の内容を自分だけの成果であるかのように載せている。それを知って激しいショックを受けた鈴木は宇沢や同僚たちがいる前で泣き出してしまった。
他人が作成したグラフも勝手に拝借して載せている。学者として最低ですねえ。
『研究開発と設備投資の経済学』を竹中は博士論文として一橋大学経済学部に提出したが、不合格だった。

竹中はコロンビア大学ビジネススクールの客員研究員だったが、事実上できることといえば大学の図書館で本を読む程度。「コロンビア大学の客員研究員といえば、実態を知らない人はありがたがるけど、実際には図書館で本も借りられない。借りるにはまたお金を払わないといけないんです」
アメリカの大学の客員研究員だったという肩書をちらつかせる人がいるけど、大したことないこともあるということは知られていてもいいですね。

「ところが竹中は、「実ははっきり言うと、今、郵政の民営化をする必要はないんです」と言う」
じゃあなんで民営化したのよという話。あきれてしまう。

「繰り延べ税金資産は、貸し倒れ引当金に課税される税金分を、将来還付されるという前提のもとで計上する資産だ」
りそなに公的資金を投入するときに、朝日監査法人でりそなを担当者していた平田さんが自殺している。かわいそうに。
りそなは竹中と木村剛のスケープゴートとして経営破綻させられてしまった形。りそなの監査法人は朝日と新日本だった。朝日で担当していた平田は「四項但し書き」、つまり課税所得5年分を認める考えだったが、朝日の幹部と木村が通じていて、りそなの繰り延べ税金資産を認めないという経営判断をした。
平田は自殺し、朝日監査法人はりそなの監査を辞退した。新日本監査法人は当初、課税所得5年分の繰り延べ税金資産を認める方針だった。しかし朝日が唐突に辞退したことで新日本の監査現場が混乱し、繰り延べ税金資産を課税所得の三年分まで減らす結論を出した。

竹中と木村は、自らの手は汚さず、監査法人を指嗾して銀行を破綻させ、公的資金投入を実現した。

木村剛は金融庁顧問をしながら、銀行免許のコンサルティングビジネスで稼いでいた。落合伸治が『日本振興銀行』を設立するのを手伝い、後に落合を追放して同行の経営者となるが2010年に破綻する。木村自身も、金融庁の検査を妨害したとして逮捕され、執行猶予三年、懲役一年の有罪判決を受ける。

小泉首相の秘書の飯島は、しばしば「小泉総理からの指示」という切り札を用いて、竹中が自分の意見を押し通してきたことに不信感を抱いていた。竹中が次の首相候補の安倍に取り入ろうとするのを見て、小泉に直接進言した。
「竹中さんは信用できない部分があります。総理と会ったあとに総理の言葉を正確に伝えていない場合があります」。飯島から進言を受けたあと、小泉は竹中と少し距離をとるようになったという。

クルーグマンは、日本経済の問題は十分な需要がないことと考えていた。需要サイドをおろそかにし、供給サイドの政策ばかりに注目する小泉内閣を疑問視していた。構造改革のイデオローグとなっている経済学者出身の竹中大臣は誤りを犯していると考えていた。
元FRB副議長でプリンストン大学教授のアラン・ブラインダーも「構造改革と同時に需要も喚起する二元戦略が必要だ」とアドバイスしていた。

当時トヨタ会長で日本経団連会長でもあった奥田氏は、竹中が決めた日本郵政への抜粋人事に腐心感を露わにした。「竹中が動くときには必ずうしろにカネの話があるんだ」と言っていた。経団連会長としての記者会見で「金融機関のトップは利害関係があるので資格がないのではないか」と発言した。
トヨタの奥田会長が懸念したことは現実となり、西川は三井住友銀行の部下だった銀行員を日本郵政の幹部に登用した。
日本の場合、製造業の経営者は比較的正常な経営感覚なのに対して、金融機関の経営者はダメダメですねえ。

オリックスの宮内義彦は小泉純一郎や竹中と親しく、日本郵政の「かんぽの宿」などを異常に安い値段で譲り受ける契約を結んだ。これに鳩山邦夫総務大臣が反対して白紙となり、マスメディアや国会で「郵政民営化」疑惑として激しく追及された。

小泉ー竹中の「構造改革」というのは、極端な財政緊縮路線で、ほとんど必然性のない「痛み」を人々に与えて生活を疲弊させることで「改革」に目覚めさせようとしているかに映った。小泉が財政緊縮路線に固執したことで、日本銀行への圧力はすさまじいものとなった。財政禁じ手で過度に金融政策に依存。
「じつは、五年半におよぶ小泉長期政権の歩みは、異常ともいえる「超低金利」時代と軌を一にしていた。日銀による大量のマネー供給が「構造改革」の通奏低音なのである。日銀は小泉純一郎内閣が発足する直前にあたる2001年3月、未踏の領域だった「量的緩和政策」に踏み切っている」

日銀が「量的緩和」に踏み出す決定をした2001年3月の金融政策決定会合で、副総裁の山口は「追加的な緩和の余地が大いに生まれてくるような、ある種のイリュージョンを与えることにもなりかねない」と「量的緩和」に疑問を呈した。

小泉内閣が初めての経済政策「骨太の方針」を発表する直前の2001年6月の金融政策決定会合に竹中が乗り込んで、日銀幹部を前にいきなりこんな発言をしている。「構造改革が動いて金融政策が動くというよりは、金融政策が一体化することによって構造改革を早めるという効果があきらかにあるわけで、とくに、これから経済がたいへんになるぞ、という一種のあおりの議論のなかで、構造改革が例えば止まってしまうというのは困るので、そういうあおりの議論をたとえば抑えるためのメッセージとしての金融政策の役割というのは、私はいまの時点では政策のフリーハンドがない時点では、非常に大きいのではないのかなと直感している」

破綻した後に、政府の管理下に置かれたりそな銀行が社外取締役として迎え入れた一人が川本裕子。マッキンゼーのコンサルタントだった川本はりそなを破綻に追い込む際、決定的な役割を果たしている。竹中の金融問題タスクフォースのメンバーだった。一方、りそな副社長の梁瀬は責任を取る形で辞任させられた後、オリックスに入社している。オリックスの経営者は竹中の盟友、宮内義彦。梁瀬はその後オリックス社長を務めている。破綻して公的資金二兆円で支援されたあと、りそなは自民党への融資を増やし自民党のメインバンクと化した。

竹中はUFJに圧力をかけ、UFJは大口問題債権のミサワホーム社長の三澤を辞めさせ、産業再生機構で債務を整理して身ぎれいになってからトヨタホームが引き取った。その後ミサワホームの新しい社長に抜擢されたのは竹中の兄の竹中宣雄だった。竹中平蔵が現職の金融担当大臣として自民党から出馬したとき、ミサワの子会社幹部らがポスター張りなどの支援をしていたことが発覚して、問題となっている。

竹中平蔵のクローニーキャピタリズムに、眩暈がしますね。

「金融維新」を唱えた木村剛は、日本振興銀行の経営者となって数々の問題を引き起こしながら、ついに2010年9月10日、日本振興銀行を破綻させた。そして、日本の金融史上初めて「ペイオフ」が適用された。預金者が預けていた資金が失われる事態となったのである。

日本初のペイオフ適用とか、とんだ「金融維新」ですねえ

銀行が破綻するわずか6か月前、木村は自らが保有する日本振興銀行の株式を1株33万5000円という法外な高値で売り抜けて、総額3億1825万円を手にしている。中小企業保証機構は日本振興銀行からの融資を元手に、木村の株を買い取った。つまり木村が手にした金は破綻寸前の日本振興銀行から引き出したカネ

どこまで腐っていのかという話

木村は逮捕された後、弁護士の口座に3億以上の資金を移して自分の財産を保全する措置を講じている。3000人以上の預金が失われる中で、木村が守り抜いたのは自分の財産だけだった。

竹中は、本来なら銀行免許を交付すべきではない日本振興銀行に交付し、その結果、預金保険機構への多大な損失と預金者への負担を招いた。

竹中は2003年に幻冬舎から出した『あしたの経済学』という本のなかで寺島実郎の『団塊の世代 わが責任と使命』の内容をパクっている。

90年代半ば近くまで、竹中は繰り返し「公共投資の拡大」を唱えていた。それはアメリカが日米構造協議で要求していたから。どころが自分がマクロ経済政策を担う経済閣僚になると一転して極端なまでの財政緊縮論者へと変貌する。

竹中は安倍政権の産業競争力会議の中核メンバーとして再び表舞台に立った。同時に、認罪派遣業界の大手、パソナグループの取締役会長を務めている。

『市場と権力』佐々木実(2013) 読了です。なかなか衝撃的な内容でした。

『市場と権力』の「おわりに」で紹介されている宇沢弘文の「混迷する近代経済学の課題」の全文は宇沢の『経済と人間の旅』で読むことができます。

2019年3月21日木曜日

2019年3月14日 London ロンドン

朝が早いのでBeresford Hotelのアイルランド伝統のブレックファーストを食べられなかったのが残念。雨の中、ホテルの向かいのセントラル・バス・ステーションの道路沿いでエアリンクに乗りダブリン空港へ。BA-833でロンドンへ。BAは唯一機中の飲み物が有料だった。無料と思ってリンゴジュースを頼んだらお金を請求されたのでキャンセル。ヒースロー空港からヒースロー・エクスプレスでパデイントンへ。往復券で36ポンド。パディントンからタクシーでいったんホテルに行き、荷物を預ける。ホテルはHotel ibis London Blackfriars。
テムズ河の水は汚い。



 セント・ポール大聖堂。


バンク・ステーション

 Royal Exchange。左がイングランド銀行(中央銀行)。




Hotel ibis London Blackfriars。アメニティはついていない。

 Royal Exchangeの中のレストランで、フォロワーさんたちとディナー。肉とスパークリングワインがおいしかった。



ロンドンのアンダーグラウンドに乗っているときにアールズコート駅で、昔レッド・ツェッペリンがここでライブをして、と私が語り始めると若手にレッド・ツェッペリンってなんですかと言われた。そうだよね。若い人はレッド・ツェッペリンなんて知らなくて当たり前だよね。ハマースミスの駅の近くの店で時間つぶし。

 ハマースミスからパディントンでヒースロー・エクスプレスに乗り換え、ヒースロー空港へ。

NH-212で11時間50分かけて無事に羽田に帰国。

2019年3月13日 Dublin ダブリン 『ユリシーズ』の舞台を散策

フランクフルトからLH-978でいよいよ『ユリシーズ』の舞台であるダブリンへ。2.05のフライト時間だけれど時差が1時間あるので1時間後にダブリン到着。ターミナルを出てすぐのところからエアリンクという空港と市内を結ぶバスに乗る。往復で12ユーロ。


エアリンク をセントラル・バス・ステーションで降りる。エアリンクは降りる場所と乗る場所が違うので注意。

ミーティングがあるので先にスーツケースだけ預ける。ホテルはセントラル・バス・ステーションのすぐ近くのBeresford Hotel。歴史を感じさせる良いホテルだった。
 









ミーティングが終わってホテルにチェックイン。 伝統を感じさせる小ぎれいなホテル。チェックインのときにDublin Visitor Mapをくれた。ジョイスゆかりの地もいくつか示されていて役に立った。

 ミーティングも終り、いよいよ『ユリシーズ』の舞台、ダブリンを散策。


 リフィー川

 オコーネルのモニュメント
ジョイスの銅像

残念ながらジョイス・センターは5時で閉館。この扉はブルームが住んでいたとされるアパートのもの。取り壊される直前に外して移植された。



ブルームの家があったとされる住所は今は病院になっている。
病院の壁にジョイスゆかりの地であることを示すプレートがある。



リフィー川

アイルランド銀行(中央銀行ではない)

 トリニティ・カレッジ








この辺り全体がIFSC(International Financial Service Centre)となっていて、ビルの1回に牛の像。