『現代経済学の名著』は1989年の本で、随分昔に買ったまま積読。佐和氏は編集だけで、実際の執筆は根井雅弘(ヴェブレン、シュムペーター、ロビンズ等)、吉田雅明(ケインズ、レオンティエフ)、小島專孝(ハイエク)、菊谷達弥(アロー、ベッカー等)、秋田次郎(ハロッド、サミュエルソン等)。
アローは『社会的選択と個人的評価』 Kenneth Joshph Arrow "Social Choice and Individual Values"(1951)。
「市場型経済においては、多種多様な初期資源や能力、好みをもつ多数の経済主体が、自己の利益のみを考えて行動し、それが市場に集計されて、相互の行動が調整され均衡がもたらされる。
民主主義社会において最も重要な政治手続きである選挙制度は、投票者の意思を集計して、社会全体としての決定をなす一つの手段である。
『社会的選択と個人的評価』は「投票と市場機構の間の区別は無視し、両方とも集団的な社会的選択という一層一般的な範疇の特別な場合とみなす」という立場に立って、この一般化された社会的選択の機構の特性を、厳密な方法論的基礎の上に分析するものである。」
アローの提起する問題の適用領域はきわめて幅広い。まず各種の会議や選挙においてなんらかの投票方法を用い、メンバーの意思にもとづいて決定を行う場合。次にある経済政策が現状より望ましい社会状態をもたらすか否か、を判定しようとする場合。さらに組織や国家の構成員の自発的合意にもとづいて社会的選択を行う際のルールの整合性といった、社会の構成原理に関わる領域。
「アローは、これらの未知の広大な領域に、記号論理学を用いた公理的方法という武器を持って分け入った。そして、民主的なルールにもとづいて諸個人の合理的な判断を集計することによって、社会としての合理的な判断を導くことは不可能である、という驚くべき命題を証明したのである。これが『アローの一般可能性定理』として知られる結論であり、その否定的含意、理論的射程の広さ、斬新な方法論によって、経済学にとどまらず、政治学や社会学の諸分野にも強いインパクトを与えた。」
アローは二つの顔を持っている。「ひとつは一般均衡論の旗手としてのそれである。限界革命をへて、新古典派経済学の彫琢をめざす理論経済学の分野において、ヒックス、サミュエルソンたちが先頭集団をなしたとすると、その後をついだアロー、ドブルー、ハーヴィッツといった人々はさらに高度な数理的手法を用いてワルラス体系の精緻化を行った。1950年台のスタンフォード大学は、若きアローやハーヴィッツによって高度数理派のメッカとなり、気鋭の経済学者たちの世界的巡礼の地であった。競争均衡解の存在証明(ドブルーと共同)、解の大域的安定性の解明(ハーヴィッツと共同)をはじめとして、いわゆるアロー=ドブルー経済と呼ばれる、不確実性下の経済を扱う手法の確立など、この分野における彼の先駆的功績は広く知られている。
しかしアローの関心はそれにとどまらない。彼は新古典派経済学の理論的限界に正面から取り組むという第二の顔を持つ。不確実性が存在するとき、市場における競争システムでは効率的な資源配分が達成できないとする一連の論文において、医療の経済分析や研究開発活動の分析を行っている。『社会的選択と個人的評価』はアローの処女作であるが、個人の意思決定を尊重することと、社会としての集団的意思決定を合理的に行うことは両立しえないと主張する。このように、市場システムを万能なものとしがちな新古典派経済学の限界を早くから指摘した。」
「彼の姿勢を一貫して貫くものは、経済分析者(エコノミスト)としてのそれであり、『正式に訓練を受けたエコノミストは、自分自身を、合理性の守護者、他の人に対して合理性を説く人、そして社会に対して合理性を処方する人、とみなす』(『組織の限界』の第一章「個人的合理性と社会的合理性」)。彼はこの立場から、価格システムの機能の長所とその不完全性とを、公平に見据えるのである。」
「いかなる瞬間においても、個人は必然的に彼の個人的欲望と、社会の要求との間の対立に直面しているという観点に立って、アローはいう。『あらゆる瞬間において、われわれのとる価値は、妥協の産物でなければならない。というのは、他人が違った価値をもつからであり、そしていかなる社会的行動も、なんらかの共同の要素、とくに協定(アグリーメント)の要素なしには不可能だからである』。」
《アローの一般可能性定理》
【公理1 選好順序の完全性】
【公理2 選好順序の推移性】
【条件1 広範製の要求】
【条件2 パレート原理】
【条件3 無関係な選択対象からの独立性】
【条件4 非独裁制の要求】
[アローの一般可能性定理] 選択の対象となる社会状態が三つ以上存在し、個人の選好順序が公理1と公理2を満たすとすれば、条件1~4を満たす社会的選択関数は存在しない。
この定理は、社会的選択関数の存在が、一般的に「不」可能であることを主張するものであるが、広くアローの一般「可能」性定理と呼ばれている。
2012年12月30日日曜日
2012年12月9日日曜日
マクロ経済学(齊藤、岩本、太田、柴田)
学部レベルのマクロ経済学の本としてお薦めです。これを読んでおけば、安倍総裁のようにトンデモ経済学に騙されることもないと思います。
《POINT 6-7》 貨幣とは? 中央銀行とは? 貨幣供給とは?
マクロ経済学や金融論では貨幣を次のように分類している。
(1)紙幣・硬貨
(2)準備預金(中央銀行の当座預金)
(3)民間銀行の要求払預金(普通預金プラス当座預金)
(4)民間銀行の定期預金(CDを含むこともある)
貨幣供給量、あるいはマネーサプライという場合には、中央銀行が発行している(1)と(2)をあわせて「ハイパワード・マネー」と呼ばれている。ハイパワード・マネーは「マネタリー・ベース」と呼ばれることも多い。ハイパワード・マネーに(3)を加えた貨幣供給量は「M1」と呼ばれる。さらに(4)を加えたものは「M2」と呼ばれる。
「M1の決定にはマクロ経済のさまざまな要因が反映している。一方、中央銀行が直接的に制御できるのは、たかだかハイパワード・マネーのレベルである。
名目貨幣供給量を中央銀行が決定する外性変数としているIS-LMモデルでは、このへんのところが非常にあいまいで、そのためにモデルと現実との対比がつきにくいのである。外生変数として取り扱える貨幣供給量は、せいぜいハイパワード・マネーのレベルなのに、IS-LMモデルが想定しているのは、マクロ経済において決済手段や価値貯蔵手段として機能しているM1のレベルなのである。しかし、マクロ経済の諸要因が反映しているM1のレベルの貨幣供給量は、内生変数として取り扱うほうがずっと自然である。中央銀行ができることは、ハイパワード・マネーを制御しながら、M1を間接的にコントロールすることが精一杯であろう。」
M1の貨幣供給量を用いて、標準的な貨幣需要関数によって日本の貨幣市場が説明できるのか見ている。ここではM1をGDPデフレーターで実質化したものを実質貨幣供給量としている。実質貨幣供給量を実質GDPで除すことで、実質GDPの影響を取り除く。これは「マーシャルのk」と呼ばれていて、M1を名目GDPで除したものに等しくなる。マーシャルのkの逆数が「貨幣の流通速度」と呼ばれるのは、市場にある名目貨幣残高が何回転すれば、名目GDPに匹敵する取引を行うことができるかを表しているから。
もし貨幣需要関数が実際の貨幣市場の需給を説明できるとすると、実質GDPの影響を取り除いた実質貨幣残高に相当するマーシャルのkが、貨幣の保有コストである名目金利の上昇(低下)とともに減少(増加)しなければならない。
翌日物コールレートを名目金利とした場合、実質貨幣残高と名目金利との間で負の相関が認められるが、コールレートが10%から1%の間では、名目金利が低下しても、マーシャルのkで見た実質貨幣残高がわずかにしか増加しない。しかしコールレートが年率0.5%から0%の間で低下する局面では、実質貨幣残高が急激に増えている。
ゼロ金利近傍では、貨幣需要の利子率弾力性が非常に高くなっていることを示している。言い換えると、名目金利がゼロ水準に近づくと、貨幣の流通速度が極端に低下して貨幣が市場に滞留する。
名目利子率が非常に低くなると貨幣需要の利子弾力性が高まる主な理由は、金利がゼロ近傍であると、貨幣の保有コストをほとんど無視できるので、わずかな金利がつく定期預金などから金利のつかない現預金に資金がいっせいにシフトしていくと考えてよいのではないか。
昔の貯金箱は豚の形をしていたからか、金利がつかなくても、普通預金や当座預金などの要求払預金に資金を積み上げておくことを「豚積み」と呼んでいる。
貨幣需要の金利弾力性が極度に高まる状態は、「流動性の罠」と呼ばれる。「大量の資金が現預金の形で貨幣市場にじっと滞留している状態」が、「罠に引っかかって動けなくなる様」にたとえられているからである。
LMモデルでは貨幣市場の需給均衡が名目金利を決定。新しいケインズ(New Keynesian)・モデルでは中央銀行が名目金利を直接設定していくケースを想定している。これは中央銀行が制御するのが貨幣供給なのか、名目金利なのかという問題に対応している。
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