佐和隆光氏の「マクロ計量モデルの有効性をめぐって」という文章がある。
「ケインズ派対合理的期待形成派の論争は、わが国の経済ジャーナリズムをも湧き立たせている。いわゆる新古典派総合学派は、本場アメリカにおいても合理的期待形成学派に押しまくられ、いまや主流の座をゆずり渡したとさえいわれている。私はこうした現状を、以下のような経緯の結末であると見ている。
1970年代の初め頃になって、新古典派経済学の危機が叫ばれた。危機をもたらしたひとつの側面として、新古典派パラダイムにおけるパズルの枯渇ということがあげられる。パズルが枯渇してしまうと、めぼしい論文が書けなくなる。そうなると、雑誌論文の数で業績を競いあうというシステムが、うまくはたらかなくなる。”制度化”された経済学にとっては、深刻な”危機”である。そこで、アメリカの経済学者は、新しいパズルの源泉を、求めてやまぬことになる。
こうした矢先に登場したのが、合理的期待形成という新学説である。確率や統計の基礎的手法をマスターするだけで、この新学説の提出するパズルを、矢継早に解くことができる。とりわけ、短時間のうちにパズルを見つけ、それを解いて、博士論文にまとめあげる必要のある大学院生にとって、これほどありがたい学説はなかった。イリノイ大学にいたころ、私の周辺にも、こうした波にのって、高給取りになった同僚が何人かいた。
ところが、驚いたことに、この新学説は、たんなる”パズルの泉”にとどまることなく、新保守主義というイデオロギーの理論的支柱にまで、成りあがったのである。少なくとも私の周辺にいた合理的期待形成派の人々にとって、この新学説は昇進を早め昇給をかちえるための方便にすぎなかったはずである。およそイデオロギーなどには無関心な、”パズル解き職人”という印象の人たちであった。にもかかわらず、である。その謎を解く鍵は、私が常々主張する、アメリカにおける経済学の”制度化”ということに求められる。
つまり、経済学が一個の”制度”として社会的に容認されているからこそ、一見、荒唐無稽に思える数理経済学の一学説が、新しい(?)イデオロギーの支柱としてたてまつられることにもなる。アメリカ以外の国では、およそ考えられないことである。」
2014年1月11日土曜日
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