2015年12月5日土曜日

『90分でわかるニーチェ』

ニーチェを読めば、精神が高揚する。そして、実をいえば、これこそ哲学で肝要なものだ(だからこそ、ニーチェは危険なのだ)。」

「キリスト教の支配した中世のはじめ、哲学的思考は衰退し、哲学は眠りに落ちる。この眠りのなかから、哲学的夢想ともいうべきスコラ哲学が生み出される。教会の教えとアリストテレス哲学をミックスした思想の誕生だ。この眠りを覚ましたのは、17世紀のデカルトである。「我思う。ゆえに、我あり」と高らかに宣言し、哲学を激しく揺さぶった。こうして啓蒙主義の時代が到来する。「知識は信仰ではなく、理性にもとづく」という考えが世を席捲する」
デカルトの一撃はイギリスをも貫く。しかし目覚めたイギリス人はデカルトの理性主義に反旗を翻し、「知識は理性ではなく、経験にもとづく」と主張する。いわゆるイギリス経験論の登場だ。イギリス経験論は経験にもとづかないものを破壊しようとする。デカルト的な理性主義だけでなく、理性的にみえるものをことごとく打ち砕こうとする。哲学的思考すら、微小な感覚的集合にすぎないという。哲学的思考は解体され、哲学は再度まどろみに落ちる。
「18世紀中葉、カントが「独断のまどろみ」から覚め、壮大な哲学的システムを築きあげようとする。ちゅせいに哲学を眠りに落としたものよりも、巨大な体系であった。哲学はどのような方向に進めばよいのか、分からなくなる。この状況に対して、ヘーゲルは途方もなく壮大な体系をつくりあげることで、敢然と立ち向かう。ショーペンハウアーは別の道に進み、カント的思想に不気味な東洋思想の息吹を加える。このショーペンハウアーが、若きニーチェを眠りから揺り起こした」
目覚めたニーチェは一陣の冷たい突風と化し、声高に新たな哲学を説きはじめる。その後長いあいだ、人々が眠りにつくことはなかった。身を引き裂くようなニーチェ哲学のために・・・
「The World as Will and Idea (Vol. 1 of 3) by Arthur Schopenhauer
1819年に公刊されたドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの代表的著書『意志と表象としての世界』」
ワーグナーが生まれたのはニーチェの父と同じ年。
ニーチェは博士号も取得していないのに若干24歳でバーゼル大学文献学教授に就任する。すぐに文献学の講義と並んで哲学の講義もおこなう。「彼の意図は、哲学、美学、古典学を結びつけることにあった。これらを結びつければ、西洋文明の欠点を分析するための手段が得られると考えていた」
ニーチェが一生涯尊敬したのは、バーゼル大学のスタッフで文化史の大家、カーコプ・ブルクハルト一人であったに違いない。
ニーチェは週末になると、ルツェルン湖畔にそびえるワーグナーの壮麗な邸宅へ通うようになる。ワーグナーの生活は、途方もないものだった。生活自体がオペラであった。つねに音楽を奏で、感情を豊かに表現し、政治を語る。ワーグナーは自分のファンタジーを生き抜いていた。あるいはそう信じていた。
1889年1月、トリノの通りを歩いているときニーチェは突然、鞭をあてられた辻馬車の馬の首にしがみつき、涙をながしながらくずれ落ちた。発狂したのだ。狂気に陥った理由としては、過労、孤独、苦痛が挙げられるが根本的な理由は梅毒である。
病院にしばらく滞在した後、母親のもとに送られて母親がニーチェの面倒を見た。母親の死後は妹のエリザベートが継いだ。エリザベートの夫フェルスターは教師の仕事がうまくいかず反ユダヤ主義に傾く。フェルスターはのちに、パラグアイに「ヌエバ・ヘルマニア(新ドイツ)」というアーリア人植民地を打ちたてる。ザクセン地方の貧しい農民を使ってつくりあげたものだ。フェルスターは農民たちを搾取したあげく、自殺をとげる。ドイツに帰り、ニーチェの世話をすることになったエリザベートは、ニーチェを偉大な人物に仕立てる決心をする。文化的なイメージのあったワイマールにニーチェ史料館を建設しようとする。またエリザベートはニーチェの未刊行のノートを『権力への意志』という表題で公刊する。その際彼女は勝手な挿入を加える。反ユダヤ主義的なコメント、そして彼女自身を褒めたたえるコメントを混ぜてしまう。のちにニーチェ学者カウフマンは彼女の挿入した部分を取り去った本来の姿で出版する。
「快楽はいつ得られるのか?
権力をもっていることを実感したとき。
幸福はいつ得られるのか?
権力と勝利の意識が心を覆うとき。
進歩はいつ得られるのか?
この種の心情がつよまり、強大な意思をもつとき。
その他のすべてのことは?
危険な誤解」