図書館で借りてきた『ブックガイド心理学』を読んでるところ。
ユングは人間のこころのエネルギー(ユングはリピドーと呼ぶ)が、もっぱら外界に向うか、内界に向うかで、物の見え方や考え方が全く異なることに着眼して、全社を外向型、後者を内向型と名づけた。
外向型においては、客体が、内向型においては、主体が、決定的に重要な意味を持つ。前者は、興味・関心がもっぱら外界の他者や物にあり、あらゆるこころの動きは、それらによって微妙に影響を受けるのに対し、後者では、興味・関心はもっぱら内界にあるため、周囲のものには影響を受けない。
外向型は、いつでも、どこでも、初めて会った人とすら、以前からの知己のごとく、いともたやすく友好的な話ができるので、社交的に見えることが多い。一方、内向型は、ほとんど他人の存在に気がなく、引っ込み思案で、容易に胸襟を開かず、猜疑心が強いため、けむたがられることが多い。
ユングはその二つのタイプに加えて、4つの基本機能を想定した。合理的機能としての、「思考」と「感情」、非合理的機能としての、「感覚」と「直感」というふうに、二つの軸上で、おたがいに相補的な関係にあるとする点が、ユングの独創的なところ。
感情は、通常は、非合理的なものと考えられやすいが、ユングは感情を合理的機能とした。
ユングは、感情を「自我と与えられた内容との間に生じる活動であり、しかも、その内容に対して、受け入れるか、拒むか(つまり、快か、不快か)、という意味で、一定の価値を付与する活動である」とした。感情は、きわめて合理的な価値判断の機能だとするのである。
思考とは、「それ固有の法則に即して、与えられた様々な表象内容を(概念的に)連関づける」心的機能であり、感覚とは、「物理的な刺激を知覚に伝える」心的機能であり、それゆえ、知覚と同じである。よって「なによりもまず、五感による感覚、すなわち感覚器官や身体感覚による知覚」である。そして、直感とは「知覚を無意識的な方法によって伝える」心的機能だとする。これは一種の本能的把握である。直観の内容は、感覚のそれと同様に、「すでに与えられている」という性格をもっており、感情内容や、思考内容のごとく、「派生したもの」あるいは「作り出されたもの」という性格とは対立。
二つの根本態度と四つの基本機能によって、たとえば「外向的直観型」とか、「内向的思考型」とか、「内向的感覚型」というようにいくつかのタイプが分けられる。さらにユングの独創的な点は「優越機能」と「劣等機能」という考えや、「意識と無意識の補償関係」といったダイナミックな考え方にある。つまり、思考が優越機能の人は、同じ合理軸の感情が劣等機能に、感覚が優越機能の人は、同じ非合理機能の直感が劣等機能になる。また、意識があまりに「外向的」に傾き過ぎると、無意識のほうは逆に「内向的」に働くし、意識が「内向的」に向いている人は、無意識が「外向的」になる。
ユングは、内向型の、一見するところ、きわめてとっつきにくい人間が、ひとたび、その内界に魅せられた場合、いかに奥行きの深い、すてきな存在となりうるか、を身をもって証したのが本書『人間のタイプ』なのである。
2015年10月31日土曜日
2015年10月25日日曜日
エニグマ アラン・チューリング伝
アラン・チューリングを描いた「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」という映画でベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じている。王様のブランチで紹介していた司会の谷原章介が「昔からチューリングが好きだった」と言っていて、なかなか侮れない。
チューリングはコンピュータの論理的な原型を生み出した論理数学者。第二次大戦では秘密裏に英国でドイツ軍の暗号「エニグマ」を破る仕事で中心的役割を果たした。当時は罪だった同性愛で有罪となりホルモン治療を経た後、42歳を前に自殺。
映画『イミテーション・ゲーム』の元になったチューリングの30年前の伝記がようやく翻訳された。それがアンドルー・ホッジスの『エニグマ アラン・チューリング伝』。著者は数学者らしいのでチューリングの研究内容も詳しく解説されている。
膨大な情報量に加え、訳者の言うように文体が(誰が何をどう考えたか思索しながら)粘着的なのでなかなか進まない。しかし頑張って読む価値は十分にある。
アンドルー・ホッジスの『エニグマ アラン・チューリング伝』を読んだ後では、チューリングを扱った映画『イミテーション・ゲーム』も物足りなさを感じる。
天才数学者アラン・チューリングは、英国政府の機密作戦に参加し、ドイツ軍の誇る暗号エニグマ解読に挑むことになる。エニグマが“世界最強”と言われる理由は、その組み合わせの数にあった。暗号のパターン数は、10人の人間が1日24時間働き続けても全組合せを調べ終わるまでに2000万年かかる
チューリングは1936年に、ゲーデルが不完全性定理を証明したのと同じ24歳の若さで『計算可能性とその決定問題への応用』を発表。すべての命令を一定の規則に基づく記号列に置き換えて計算する『チューリング・マシン』の概念は現在のコンピュータに実現されている。
チューリングはケンブリッジ大学の奨学金でプリンストン大学大学院に留学していて、ノイマン、ゲーデル、チューリングの三人の天才が一堂に集まっていたが、チューリングは一度もゲーデルと会った形跡がない。ノイマンは何度もチューリングと会っていて助手に誘ったがチューリングは帰国して軍に志願。
チューリングはイギリス情報局秘密情報部の暗号機関ブレッチリー・パークに赴任して、難攻不落と呼ばれるナチス・ドイツの暗号機エニグマの解読に取りかかった。彼は36機のエニグマの動作を同時にシミュレートできる解読機ボンブを開発し、ついにその解読を成功させた。
チューリングは、連合国軍を勝利に導いた英雄とみなされ、チャーチルから大英帝国勲章を授与された。しかし、エニグマに関する情報公開は固く禁じられ、1970年代まで国家機密にされていたため、チューリングの偉業については、母親でさえ知らされなかった。
チューリングは少年時代から同性愛者だった。1952年、映画館で知り合った19歳の青年を自宅に招いて宿泊させた。数週間後、その青年と彼のゲイ仲間がチューリングの家に泥棒に入り、裁判の過程でチューリングが同性愛者であることが暴露されてしまった。
当時のイギリスでは同性愛そのものが「違法」であり、彼には「定期的な女性ホルモン投与」という屈辱的な刑罰が与えられた。大学教授のスキャンダルは、新聞にも大きく報道された。その二年後、チューリングは、41歳の若さで自殺した。
『エニグマ アラン・チューリング伝』、2章でヒルベルトやゲーデルについて少し解説してある。
アラン・チューリングはケンブリッジでウィトゲンシュタインの数学の基礎に関する授業に出ている。受講者はすべての講義に出席すると誓わなければならない。受講生はまず、ウィトゲンシュタインの個人面談を受けなければならない。「この面談は印象に残るほど長い沈黙で有名だ」
『エニグマ アラン・チューリング伝』を読むと、とりあえずアラン・チューリングはガチホモということは分かった。
コロッサスの技術的成功からチューリングは真空管を何千個も同時に一緒に利用できることを知った。次にいわば素手でディライラに取り組んだ。「彼の狂気にはつねに一貫性がある」
アラン・チューリングは「真理以外のものすべてに対する敬意を欠いていた」
チューリングの業績をまとめた"http://AlanTuring.net"なんてのがあったのね。
http://www.alanturing.net/
チューリングの代表的な論文
『計算可能数について:決定問題への応用を含めて』
"On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem" (1936)(pdf)
『計算機械と知性』チューリング(1950)
"Computing Machinery and Intelligence" (1950)(pdf)
http://www.csee.umbc.edu/courses/471/paers/turing.pdf
チューリングはコンピュータの論理的な原型を生み出した論理数学者。第二次大戦では秘密裏に英国でドイツ軍の暗号「エニグマ」を破る仕事で中心的役割を果たした。当時は罪だった同性愛で有罪となりホルモン治療を経た後、42歳を前に自殺。
膨大な情報量に加え、訳者の言うように文体が(誰が何をどう考えたか思索しながら)粘着的なのでなかなか進まない。しかし頑張って読む価値は十分にある。
アンドルー・ホッジスの『エニグマ アラン・チューリング伝』を読んだ後では、チューリングを扱った映画『イミテーション・ゲーム』も物足りなさを感じる。
天才数学者アラン・チューリングは、英国政府の機密作戦に参加し、ドイツ軍の誇る暗号エニグマ解読に挑むことになる。エニグマが“世界最強”と言われる理由は、その組み合わせの数にあった。暗号のパターン数は、10人の人間が1日24時間働き続けても全組合せを調べ終わるまでに2000万年かかる
チューリングは1936年に、ゲーデルが不完全性定理を証明したのと同じ24歳の若さで『計算可能性とその決定問題への応用』を発表。すべての命令を一定の規則に基づく記号列に置き換えて計算する『チューリング・マシン』の概念は現在のコンピュータに実現されている。
チューリングはケンブリッジ大学の奨学金でプリンストン大学大学院に留学していて、ノイマン、ゲーデル、チューリングの三人の天才が一堂に集まっていたが、チューリングは一度もゲーデルと会った形跡がない。ノイマンは何度もチューリングと会っていて助手に誘ったがチューリングは帰国して軍に志願。
チューリングはイギリス情報局秘密情報部の暗号機関ブレッチリー・パークに赴任して、難攻不落と呼ばれるナチス・ドイツの暗号機エニグマの解読に取りかかった。彼は36機のエニグマの動作を同時にシミュレートできる解読機ボンブを開発し、ついにその解読を成功させた。
チューリングは、連合国軍を勝利に導いた英雄とみなされ、チャーチルから大英帝国勲章を授与された。しかし、エニグマに関する情報公開は固く禁じられ、1970年代まで国家機密にされていたため、チューリングの偉業については、母親でさえ知らされなかった。
チューリングは少年時代から同性愛者だった。1952年、映画館で知り合った19歳の青年を自宅に招いて宿泊させた。数週間後、その青年と彼のゲイ仲間がチューリングの家に泥棒に入り、裁判の過程でチューリングが同性愛者であることが暴露されてしまった。
当時のイギリスでは同性愛そのものが「違法」であり、彼には「定期的な女性ホルモン投与」という屈辱的な刑罰が与えられた。大学教授のスキャンダルは、新聞にも大きく報道された。その二年後、チューリングは、41歳の若さで自殺した。
『エニグマ アラン・チューリング伝』、2章でヒルベルトやゲーデルについて少し解説してある。
アラン・チューリングはケンブリッジでウィトゲンシュタインの数学の基礎に関する授業に出ている。受講者はすべての講義に出席すると誓わなければならない。受講生はまず、ウィトゲンシュタインの個人面談を受けなければならない。「この面談は印象に残るほど長い沈黙で有名だ」
『エニグマ アラン・チューリング伝』を読むと、とりあえずアラン・チューリングはガチホモということは分かった。
コロッサスの技術的成功からチューリングは真空管を何千個も同時に一緒に利用できることを知った。次にいわば素手でディライラに取り組んだ。「彼の狂気にはつねに一貫性がある」
アラン・チューリングは「真理以外のものすべてに対する敬意を欠いていた」
チューリングの業績をまとめた"http://AlanTuring.net"なんてのがあったのね。
http://www.alanturing.net/
『計算可能数について:決定問題への応用を含めて』
"On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem" (1936)(pdf)
『計算機械と知性』チューリング(1950)
"Computing Machinery and Intelligence" (1950)(pdf)
http://www.csee.umbc.edu/courses/471/paers/turing.pdf
2015年9月27日日曜日
シルバーウィークに万座へ
シルバーウィークに万座へ行ってきた。
日本国道最高地点、標高2,172m を目指す。道のすぐそばから断崖絶壁になっていて、ガードレールも細いワイヤーしかないので運転していてはなはだ怖い。
碓氷軽井沢から見える岩山
鬼押し出し園
浅間山が見える
万座プリンスホテルの窓から
日本国道最高地点、標高2,172m を目指す。道のすぐそばから断崖絶壁になっていて、ガードレールも細いワイヤーしかないので運転していてはなはだ怖い。
日本国道最高地点、標高2,172m
草津温泉の湯畑を見物
小林一茶の句碑
2015年8月30日日曜日
『ケインズは本当に死んだのか』 高橋是清の経済政策
高橋是清の経済政策については『ケインズは本当に死んだのか』金森久雄編(1996)の第5章において小宮隆太郎の「ケインズと日本の経済政策―是清・湛山・亀吉の事績を通じて」に簡潔にまとめられている。小宮によると是清の政策は当時の経済状況に対するマクロ政策の処方箋として模範に近い答案と。
金解禁政策を推進した中心人物は当時大蔵大臣であった井上準之助。彼の理解していた通貨政策の理論はケインズやカッセルの新理論以前の古い考え方だった。金解禁そのものが通貨政策として大失敗であったばかりでなく、金解禁前に進められた緊縮的な財政金融政策が日本経済に大きな災厄をもたらした。
「是清は、金解禁の政策が行き詰って内閣が交代し、蔵相に就任(五度目)すると、直ちに金輸出を再禁止した(1931年12月)。その後36年に81歳の現職(七度目)の蔵相の身で、二・二六事件の凶刃に倒れるまで、”ケインズ的”な財政・金融・為替政策を展開した」
「為替政策では、金再禁止直後は大幅円安を放任し、32年末にポンドに対して旧平価から40%以上も円安になった水準でポンドにリンクした。対米ドル減価率も約40%。金やフランスなどの通貨に対しては約66%の減価。資本収支については資本逃避防止法、為替管理法を施行した」
「大不況下の1932年~35年に、多くの国では物価は大幅に下がり、自国通貨で図った輸出額が低下したが、日本では円安により円貨で測った輸出額は大いに増加した。円レートの大幅減価と輸出伸長は日本が小国であり、また第二次大戦後のIMFのような取り決めなかったので、可能であった」
「日本の交易条件は大幅に悪化したが、その不利益よりも経常収支の悪化を招くことなく国内生産が拡大したことの利益の方がはるかに大きかった」
「以上の為替政策と、日銀の保証発行限度を1.2億円から十億円に拡大したことにより、財政金融政策は”金本位制の桎梏”と「固定為替レートの制約」から解放され、積極的な不況対策の展開が可能になった」
「金融政策では低金利政策がとられ、公定歩合は1932年初の6.57%から33年7月以降の3.65%まで下がった。しかし是清は「通貨の信用」と「国家の国際的信用」に深く留意していた」
「財政政策は従来の均衡財政主義から転換し、一般会計歳出を一挙に30%以上も増やし、そのために生じる財政赤字を埋めるのに歳入の30%以上に達する巨額の長期国債を日銀引き受けにより発行した。この拡張的財政政策により、はじめは「農村匡救」、産業の振興、生活の安定を目指したのだが、軍国主義の台頭により軍拡の道を進まざるをえなかった」
「以上はまさに典型的なケインズ流の有効需要拡大の政策であり、1932年当時の日本経済の状況に対するマクロ政策の処方箋として、模範に近い”答案”といってよい。これにより日本経済は深い不況から急速に回復に向かい、生産・雇用は拡大した」
「しかしこのような生産拡大の過程は完全雇用と生産設備のフル稼働に達するまでしか続かない。それ以上に有効需要を拡大すれば純然たるインフレが発生する。是清は「国力を無視」して赤字国債を発行し財政支出を増やせないことを十分に理解しており、33年以降は年々の国債発行額を減らし、インフレの兆しが見え始めた35年には財政支出の拡大を抑制しようとした」
当時の軍部は軍事費抑制を承服せず、さらなる軍事費の増額を要求。これに対してほとんど孤軍奮闘の形で抵抗した是清は、36年の二・二六事件で暗殺されてしまった。是清は軍国主義が台頭しテロリズムが横行する困難な状況の下で身を擲って軍部の横暴に対抗した数少ない人の一人だった。
「是清亡き後は財政面から軍国主義とインフレへの道に立ちはだかる人は一人もいなくなってしまった」
是清は、ケインズの『一般理論』の刊行の年に暗殺されているので、当然ながら『一般理論』は読んでいない。是清の優れた政策は、書物やアドバイザーの助言などからヒントを得たものではなく、様々な職業に就いたあとで日銀総裁、蔵相、首相を務めた彼の長年の経験の結実だろうというのが小宮氏の意見。
金解禁政策を推進した中心人物は当時大蔵大臣であった井上準之助。彼の理解していた通貨政策の理論はケインズやカッセルの新理論以前の古い考え方だった。金解禁そのものが通貨政策として大失敗であったばかりでなく、金解禁前に進められた緊縮的な財政金融政策が日本経済に大きな災厄をもたらした。
「是清は、金解禁の政策が行き詰って内閣が交代し、蔵相に就任(五度目)すると、直ちに金輸出を再禁止した(1931年12月)。その後36年に81歳の現職(七度目)の蔵相の身で、二・二六事件の凶刃に倒れるまで、”ケインズ的”な財政・金融・為替政策を展開した」
「為替政策では、金再禁止直後は大幅円安を放任し、32年末にポンドに対して旧平価から40%以上も円安になった水準でポンドにリンクした。対米ドル減価率も約40%。金やフランスなどの通貨に対しては約66%の減価。資本収支については資本逃避防止法、為替管理法を施行した」
「大不況下の1932年~35年に、多くの国では物価は大幅に下がり、自国通貨で図った輸出額が低下したが、日本では円安により円貨で測った輸出額は大いに増加した。円レートの大幅減価と輸出伸長は日本が小国であり、また第二次大戦後のIMFのような取り決めなかったので、可能であった」
「日本の交易条件は大幅に悪化したが、その不利益よりも経常収支の悪化を招くことなく国内生産が拡大したことの利益の方がはるかに大きかった」
「以上の為替政策と、日銀の保証発行限度を1.2億円から十億円に拡大したことにより、財政金融政策は”金本位制の桎梏”と「固定為替レートの制約」から解放され、積極的な不況対策の展開が可能になった」
「金融政策では低金利政策がとられ、公定歩合は1932年初の6.57%から33年7月以降の3.65%まで下がった。しかし是清は「通貨の信用」と「国家の国際的信用」に深く留意していた」
「財政政策は従来の均衡財政主義から転換し、一般会計歳出を一挙に30%以上も増やし、そのために生じる財政赤字を埋めるのに歳入の30%以上に達する巨額の長期国債を日銀引き受けにより発行した。この拡張的財政政策により、はじめは「農村匡救」、産業の振興、生活の安定を目指したのだが、軍国主義の台頭により軍拡の道を進まざるをえなかった」
「以上はまさに典型的なケインズ流の有効需要拡大の政策であり、1932年当時の日本経済の状況に対するマクロ政策の処方箋として、模範に近い”答案”といってよい。これにより日本経済は深い不況から急速に回復に向かい、生産・雇用は拡大した」
「しかしこのような生産拡大の過程は完全雇用と生産設備のフル稼働に達するまでしか続かない。それ以上に有効需要を拡大すれば純然たるインフレが発生する。是清は「国力を無視」して赤字国債を発行し財政支出を増やせないことを十分に理解しており、33年以降は年々の国債発行額を減らし、インフレの兆しが見え始めた35年には財政支出の拡大を抑制しようとした」
当時の軍部は軍事費抑制を承服せず、さらなる軍事費の増額を要求。これに対してほとんど孤軍奮闘の形で抵抗した是清は、36年の二・二六事件で暗殺されてしまった。是清は軍国主義が台頭しテロリズムが横行する困難な状況の下で身を擲って軍部の横暴に対抗した数少ない人の一人だった。
「是清亡き後は財政面から軍国主義とインフレへの道に立ちはだかる人は一人もいなくなってしまった」
是清は、ケインズの『一般理論』の刊行の年に暗殺されているので、当然ながら『一般理論』は読んでいない。是清の優れた政策は、書物やアドバイザーの助言などからヒントを得たものではなく、様々な職業に就いたあとで日銀総裁、蔵相、首相を務めた彼の長年の経験の結実だろうというのが小宮氏の意見。
『昭和恐慌と経済政策』
NHKで高橋是清のドラマをやっていたので、関連した本を読んでおく。
『昭和恐慌と経済政策』中村隆英の「Ⅳ章 危機の切迫」を読んでいるところ。
第一次大戦後の「ドイツは主としてアメリカからの資金の流入に依存して、国内における投資を進め、貿易を改善しかつ賠償を支払ってきた。ところが、世界恐慌以後、各国の海外への投資は急激に減少し、ドイツは海外からの投資を急に引き上げられたために、絶え間のない危機にさらされていたのである。オーストリアの大銀行、クレジット・アンシュタルトが支払いを停止したのは31年6月であった。大銀行の支払い停止は当然連鎖反応を呼び、ドイツは激しい金融恐慌に襲われた。ダナード銀行をはじめ、大銀行が相次いで支払いを停止するや、ドイツ政府はついに、為替を国家管理し、資本流出を禁止する強度の統制を実施するにいたった」
「ドイツに投資されていた各国の資金は、支払停止と為替管理によって今や完全にブロックされたのであったが、各国の資金が直接ドイツに投資されていたのでなく、イギリスを経由して投資されている場合が多かった。そのためにドイツからの資金引き上げの波が一転してイギリスを襲うにいたったのである」
急激な資金流出に堪えられなくなったイギリスは1931年9月21日に金本位制を停止。日本はこの年の12月に、アメリカは1933年、フランスは35年にそれぞれ金本位を停止して、その後金本位はついに復活されなかった。
「しかしながら、イギリスの金本位停止の日に、その長期的傾向を読み取り得たものは少なかった。井上(準之助)の悲劇はこの日から始まるのである」
板垣・石原の命を受けた一部の部隊が満鉄線路爆破したのを合図に満州事変がおきたのが、イギリスの金本位制停止の9月21日の3日前の1931年9月18日。
イギリスの金本位離脱にともなって、日本でドルへの需要が殺到した。実需に加えて、早晩日本も金本位を離脱することを予想し、そうなれば円の対ドルレートは下落するだろうから、そこで円に買い戻せば利益を収めることができるという思惑によるもの。イギリスが再禁止したときに日本も金輸出の再禁止をすればよかったのに、政治的理由でしなかった。
「経済的に最善と思われる政策が政治的理由から採用されないことはしばしばあって、望ましくない結果を生むことは、この時に始まったことではないが、事態の深刻さはおそらく空前といってもよかったであろう」
1931年12月に若槻内閣が総辞職。後継首相に政友会総裁の犬養毅、大蔵大臣に、引退していた高橋是清を選定。13日に犬養内閣は成立、即日金輸出の再禁止。
井上は民政党の筆頭総務として「金本位制の再建」をかかげ、選挙運動に奔走していたが、1932年2月9日、血盟団の一員に射殺された。血盟団は次いでドル買いをしたとされる三井の団琢磨を暗殺した。そして5・15事件の犬養首相暗殺に続いていく。5・15事件以降、「あらゆる政策が、軍部の意向を無視しては行なわれえない状況が出現したのである」
「高橋は、財政支出を一時的に拡大し、金融をゆるめ、対外的には資本逃避を防ぎ、為替レートを帝位に安定させるという方針を打ち出した。(略)その政策をとった後、経済は着実な回復を示した。とくに輸出の回復は目覚ましく、それにつれて国内景気も回復」、という典型的なケインジアン政策。
「経済理論的に考える限り、経済政策は外側の条件が変わればそれに応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したりするべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策はもはやそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的には望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのである」
NHKドラマで高橋是清がロンドンで戦費を調達するシーン、金融クラスタとしては大変興味深かったんだけど、一般の人にとってはどうだったんだろうか。
そこについては『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 (新潮選書) 板谷 敏彦に詳しいようなので図書館で借りてきた。
高橋是清のドラマ、さすがに二時間だと時間が足りなくて表面的に終始。
『昭和恐慌と経済政策』中村隆英の「Ⅳ章 危機の切迫」を読んでいるところ。
第一次大戦後の「ドイツは主としてアメリカからの資金の流入に依存して、国内における投資を進め、貿易を改善しかつ賠償を支払ってきた。ところが、世界恐慌以後、各国の海外への投資は急激に減少し、ドイツは海外からの投資を急に引き上げられたために、絶え間のない危機にさらされていたのである。オーストリアの大銀行、クレジット・アンシュタルトが支払いを停止したのは31年6月であった。大銀行の支払い停止は当然連鎖反応を呼び、ドイツは激しい金融恐慌に襲われた。ダナード銀行をはじめ、大銀行が相次いで支払いを停止するや、ドイツ政府はついに、為替を国家管理し、資本流出を禁止する強度の統制を実施するにいたった」
「ドイツに投資されていた各国の資金は、支払停止と為替管理によって今や完全にブロックされたのであったが、各国の資金が直接ドイツに投資されていたのでなく、イギリスを経由して投資されている場合が多かった。そのためにドイツからの資金引き上げの波が一転してイギリスを襲うにいたったのである」
急激な資金流出に堪えられなくなったイギリスは1931年9月21日に金本位制を停止。日本はこの年の12月に、アメリカは1933年、フランスは35年にそれぞれ金本位を停止して、その後金本位はついに復活されなかった。
「しかしながら、イギリスの金本位停止の日に、その長期的傾向を読み取り得たものは少なかった。井上(準之助)の悲劇はこの日から始まるのである」
板垣・石原の命を受けた一部の部隊が満鉄線路爆破したのを合図に満州事変がおきたのが、イギリスの金本位制停止の9月21日の3日前の1931年9月18日。
イギリスの金本位離脱にともなって、日本でドルへの需要が殺到した。実需に加えて、早晩日本も金本位を離脱することを予想し、そうなれば円の対ドルレートは下落するだろうから、そこで円に買い戻せば利益を収めることができるという思惑によるもの。イギリスが再禁止したときに日本も金輸出の再禁止をすればよかったのに、政治的理由でしなかった。
「経済的に最善と思われる政策が政治的理由から採用されないことはしばしばあって、望ましくない結果を生むことは、この時に始まったことではないが、事態の深刻さはおそらく空前といってもよかったであろう」
1931年12月に若槻内閣が総辞職。後継首相に政友会総裁の犬養毅、大蔵大臣に、引退していた高橋是清を選定。13日に犬養内閣は成立、即日金輸出の再禁止。
井上は民政党の筆頭総務として「金本位制の再建」をかかげ、選挙運動に奔走していたが、1932年2月9日、血盟団の一員に射殺された。血盟団は次いでドル買いをしたとされる三井の団琢磨を暗殺した。そして5・15事件の犬養首相暗殺に続いていく。5・15事件以降、「あらゆる政策が、軍部の意向を無視しては行なわれえない状況が出現したのである」
「経済理論的に考える限り、経済政策は外側の条件が変わればそれに応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したりするべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策はもはやそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的には望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのである」
NHKドラマで高橋是清がロンドンで戦費を調達するシーン、金融クラスタとしては大変興味深かったんだけど、一般の人にとってはどうだったんだろうか。
そこについては『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 (新潮選書) 板谷 敏彦に詳しいようなので図書館で借りてきた。
高橋是清のドラマ、さすがに二時間だと時間が足りなくて表面的に終始。
2015年7月5日日曜日
『〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』
池田純一氏の『〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』を読み始める。なかなか面白い。
「(シリコン)バレーの著名なビジョナリの一人であるケヴィン・ケリーは、ムーアの法則に代表されるテクノロジーの変容を、人間の手を離れた自立的進化として捉え「テクニウム」と名づけている」。ケリーはWired創刊時の編集長を務めた。
「産業革命の成果が社会の隅々にまで浸透した20世紀前半に、ドイツの哲学者であるハイデガーは、ゲシュテル(微発)という概念を提案し、ゲシュテルの呼びかけに応じて人々が個々のテクノロジーを現出させてきたと考えた」
人口知能(AI)研究者のレイ・カーツワイルは「テクニウムのような自律的な動きをどう飼いならすか、人間はどう主体的に対処すべきかに焦点を当てた。10年代に入り、まさにムーアの法則の成果によりAIの実現性が高まったところで、「シンギュラリティ」の提唱者として関心を集めている」
「シンギュラリティとは、コンピュータの計算能力が人間のそれを凌駕し、そこから先は人間の知恵では将来を見通すことができなくなる臨界点のことをいう」
ムーアの法則に従って単体のCPUの演算能力が累乗的に増大し、それらが接続され、ネットワーク上に分散するコンピュータの演算能力が増加しつづけ、やがては地球上にある演算能力の総和が、人類の脳が持つ演算能力を凌駕。シンギュラリティを迎えるのはカーツワイルによると2045年。
シンギュラリティという言葉が人口に膾炙したのは93年に数学者/SF作家のヴァーナー・ヴィンジがWhole Earth Reviewという文明批評誌に寄稿した"The Coming Technological Singularity"からだった。
"The Coming Technological Singularity: How to Survive in the Post-Human Era"
Vernor Vinge(1993)
「シンギュラリティという言葉をコンピュータの世界で初めて使ったのは数理科学者のジョン・フォン・ノイマンで、58年のことだった。彼は、人類の知性を凌駕する知性が誕生する臨界点を、シンギュラリティと呼んだ。(中略)シンギュラリティはアカデミックな対象として始まっていたのである」
「ムーアの法則とはシリコンバレーの成功の源である。(中略)カーツワイルは、シンギュラリティという議論を通じて、ムーアの法則を一種のドグマにまで高めたわけだ」
「(ドグマは)科学の世界では強固な仮説の意味で使われることがある。生物学ではDNAからタンパク質が産出されるという不可逆な過程をセントラル・ドグマと呼ぶ。わざわざドグマと呼ぶことで、その命題が絶対的な真理ではなく、人々が信じることで真理として扱われる仮説であることを強調する」
レイ・カーツワイルのウェブサイト"KurzweilAI"のホームページ
http://www.kurzweilai.net/
「カーツワイルの考え方に賛同する経営者の一人が、Googleの創業者であるラリー・ペイジだ。彼はカーツワイルが主宰するSingularity University(SU)の支援者である」
「Googleは、04年の上場時に「創業者からの手紙」の中で「世界中の情報を誰もが利用できるようにし、世界をよりよき場所にする」と宣言した。この使命を遂行するために、ペイジは11年のCEO就任以来、次々と勇猛果敢な施策を講じている」
かつてダイナブックを構想し、今日のPC時代を予見したアラン・ケイの「ソフトウェアの開発に真剣に取り組む人たちは、自分たちのためのハードウェアを作るべきだ」という言葉を愚直に実践しているのが、ラリー・ペイジである。
Wifiに繋がったタブレットを使っていると、ついにアラン・ケイの言うダイナブックが実現したなという感じがするよね。
「(シリコン)バレーの著名なビジョナリの一人であるケヴィン・ケリーは、ムーアの法則に代表されるテクノロジーの変容を、人間の手を離れた自立的進化として捉え「テクニウム」と名づけている」。ケリーはWired創刊時の編集長を務めた。
「産業革命の成果が社会の隅々にまで浸透した20世紀前半に、ドイツの哲学者であるハイデガーは、ゲシュテル(微発)という概念を提案し、ゲシュテルの呼びかけに応じて人々が個々のテクノロジーを現出させてきたと考えた」
人口知能(AI)研究者のレイ・カーツワイルは「テクニウムのような自律的な動きをどう飼いならすか、人間はどう主体的に対処すべきかに焦点を当てた。10年代に入り、まさにムーアの法則の成果によりAIの実現性が高まったところで、「シンギュラリティ」の提唱者として関心を集めている」
「シンギュラリティとは、コンピュータの計算能力が人間のそれを凌駕し、そこから先は人間の知恵では将来を見通すことができなくなる臨界点のことをいう」
ムーアの法則に従って単体のCPUの演算能力が累乗的に増大し、それらが接続され、ネットワーク上に分散するコンピュータの演算能力が増加しつづけ、やがては地球上にある演算能力の総和が、人類の脳が持つ演算能力を凌駕。シンギュラリティを迎えるのはカーツワイルによると2045年。
シンギュラリティという言葉が人口に膾炙したのは93年に数学者/SF作家のヴァーナー・ヴィンジがWhole Earth Reviewという文明批評誌に寄稿した"The Coming Technological Singularity"からだった。
"The Coming Technological Singularity: How to Survive in the Post-Human Era"
Vernor Vinge(1993)
「シンギュラリティという言葉をコンピュータの世界で初めて使ったのは数理科学者のジョン・フォン・ノイマンで、58年のことだった。彼は、人類の知性を凌駕する知性が誕生する臨界点を、シンギュラリティと呼んだ。(中略)シンギュラリティはアカデミックな対象として始まっていたのである」
「ムーアの法則とはシリコンバレーの成功の源である。(中略)カーツワイルは、シンギュラリティという議論を通じて、ムーアの法則を一種のドグマにまで高めたわけだ」
「(ドグマは)科学の世界では強固な仮説の意味で使われることがある。生物学ではDNAからタンパク質が産出されるという不可逆な過程をセントラル・ドグマと呼ぶ。わざわざドグマと呼ぶことで、その命題が絶対的な真理ではなく、人々が信じることで真理として扱われる仮説であることを強調する」
レイ・カーツワイルのウェブサイト"KurzweilAI"のホームページ
http://www.kurzweilai.net/
「カーツワイルの考え方に賛同する経営者の一人が、Googleの創業者であるラリー・ペイジだ。彼はカーツワイルが主宰するSingularity University(SU)の支援者である」
「Googleは、04年の上場時に「創業者からの手紙」の中で「世界中の情報を誰もが利用できるようにし、世界をよりよき場所にする」と宣言した。この使命を遂行するために、ペイジは11年のCEO就任以来、次々と勇猛果敢な施策を講じている」
かつてダイナブックを構想し、今日のPC時代を予見したアラン・ケイの「ソフトウェアの開発に真剣に取り組む人たちは、自分たちのためのハードウェアを作るべきだ」という言葉を愚直に実践しているのが、ラリー・ペイジである。
Wifiに繋がったタブレットを使っていると、ついにアラン・ケイの言うダイナブックが実現したなという感じがするよね。
登録:
投稿 (Atom)


















































