高木の人生を追いながら、日本に欧州の数学が導入されていく様子、ドイツが数学の中心だったころのドイツの数学者達、高木が類体論を完成させていく様子が描かれています。
初めての洋行、1900年の春にベルリンからゲッチンゲンに移る。本当はウェーバーのいるシュトラスブルグに行こうとしたらしいが、途中でゲッチンゲンに立ち寄ってヒルベルトに会い、計画が変更された。ゲッチンゲンでは「週に一度、談話会があったが、その談話会というのはドイツはもちろん数学の世界全体の中心地であった。高木は25歳にもなって『数学の現状に後るること正に50年』というようなことを痛感した。」
「それでもそれから三学期、すなわち1年半の間ゲッチンゲンの雰囲気の中に生息しているうちに、なんとなく50年の乗り遅れが解消したような気分になったという。『雰囲気というものは大切なものであります』」
「ヒルベルトの研究の仕方というのは非常に独特で、数論に心が向く時期には数論に専念するが、行くところまで行き着くと数論から離れ、全然別の領域に移っていくというふうであった。」
「類体の概念を『分岐しない類体』の範疇で把握すると『アーベル体は類体である』とは言えないが、類体の概念を拡大して『分岐する類体』を考えることにすると、どのアーベル体も類対として諒解される。これが高木類体論の『基本定理』であり、理論全体の根幹となった発見である。」
「類体の理論を建設して、その土台の上に『クロネッカーの青春の夢』と一般相互法則という二本の柱を打ち立てるのは、数論の世界にヒルベルトの心が描いた夢であった。『クロネッカーの青春の夢』を大きく包み込むかのような、簡明で壮麗な巨大な夢である。高木はこのヒルベルトの夢を継承し、『分岐する類体の理論』という、ヒルベルトの大きな夢をさらに大きく包み込んでしまう理論を構築した。高木もまた数学に夢を描く数学者であった。『クロネッカーの青春の夢』もヒルベルトの夢も、高木の夢に包まれてことごとく実現したのである。」
最後の洋行で32年ぶりにヒルベルトを訪問した高木。「毎日、(効き目があるというので)生の肝臓を食べて不治の難病と戦いつつ、時には若手の助手連中に揚げ足を取られたりしながらも、どうしても排中律の証明などを書かずにはいられないヒルベルト」
「余生などというのは論外で、『生きながらの餓鬼道ではありませんか』と高木は嘆息し、『恐ろしいのは、これも不治なる知識追求症です』と心情の声をもらした。」
『解析概論』が書き下ろしの単行本ではなく、『岩波講座数学』に分載されたのが初出だったこと、高木は学生の集中力は30分が限度という持論を持っていて、きっかり11時半に教室に現れて、12時にぴたっとやめたことなども書かれています。
意外だったのは数学の抽象化というのは比較的最近の出来事だったこと。抽象化の傾向が目立ち始めたのはWW1の直後、20年代のはじめころ。「新思潮は『決河の勢』をもってまず代数学を征服した。ついで位相学を再建し、線形作用素の理論を統一し、確率論に数学的なる基礎を与えるという勢いを示し、『数学の全嚝野を風靡してその面貌を一変せしめるに至った』。」