2015年11月29日日曜日

『数学の大統一に挑む』、NHK 『数学ミステリー白熱教室』


エドワード・フレンケル『数学の大統一に挑む』は本屋で見て面白そうと思っていたら、NHK『数学ミステリー白熱教室』としてフランケルの授業が放送されることになった。そこで図書館で借りてきてさらっと読む。これは英語だと難しいので翻訳を買いたい。ということで、今回は本とTVの両方のメモ。

『数学の大統一に挑む』は、地元の図書館だと数学の棚ではなくで伝記の棚にあったんだけど、たしかに自伝的要素もある。

「私は「クォーク」という言葉が気に入った。とくに、この名前がつけられた経緯が面白かった。クォークを考えついた物理学者のマレー・ゲルマンは、ジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』という作品から、この名前を取ったというのだ」

たしかにジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』はおいそれとは読みこなせない難物です。マレー・ゲルマンは『フィネガンズ・ウェイク』を本当に読んだのだろうか?

1993年プリンストンのアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明。ワイルズの証明は、一見したところでは、もとの問題とは関係のなさそうな志村-谷山-ヴェイユ予想と呼ばれる問題に取り組んだもの。

その数年前に、UCバークレーのケン・リベットが、志村-谷山-ヴェイユ予想が正しければ、フェルマーの最終定理が成り立つことを証明していた。そのおかげで、志村-谷山-ヴェイユ予想を証明することが、フェルマーの最終定理を証明することと同じになった。

フェルマーは古い本の余白にこの命題を書き込んでおり、この命題に対する簡単な証明も見出したが、「余白が狭すぎるのでここに書くことはできない」と記していた。

フェルマーが命題を証明したとは考えられない。「その命題を証明するためには、いくつもの数学分野が新しく創出される必要があったからだ。そしてそれらの発展が起こるためには、何世代もの数学者による多大な努力が必要だったのである」

"Interview with Robert Langlands for the Mathematics Newsletter."
数学の大統一に挑むラングランズ・プログラムのRobert Langlandsインテビュー(pdf)

ラングランズは英語のほかに、フランス語、ドイツ語、ロシア語、トルコ語に通じているそうだ。フレンケルと共同研究するときはしばしばロシア語でやりとりをしている。

「今日、ガロアが発見した対称群は、彼の名を冠してガロア群とよばれており、エジプトのプラミッドやバビロンの空中庭園と同じく、われわれの生きるこの世界の驚異と呼ぶべきものである」

「ガロアは、幾何学であれば直感的に理解できる対称変換という考え方を、数論の最前線に当てはめた。しかもそれだけでなく、対称変換には驚くべき力があることを示したのだ」



「二次方程式の解の公式は、すでに九世紀には、アッバース朝の数学者アル・フワーリズミーによって知られていた(代数algebraという言葉は、アル・フワーリズミーの著書のタイトルに含まれていた、al-jabrという言葉に由来する)」




三次と四次方程式の解の公式は十六世紀の前半に発見されたが、五次方程式の解の公式は三百年にわたる数学者の努力にもかかわらず成果がでなかった。しかしガロアは、それまでの数学者は、問いの立て方を間違っていたことに気がついた

ガロアは「この方程式の解を有理数に添加することにより得られる数体の、対称群に焦点を合わせるべきだと主張したのだ。その群を、今日われわれはガロア群と呼んでいる。」

1967年、ラングランズはガロア群の理論と、調和解析と呼ばれる数学の分野とをつなぐ革命的な洞察を得た。情報に秩序を与えることは、数学の重要な役割のひとつである。ラングランズの言葉によれば、それは「混沌として見えるものから、秩序を作り出す」ことだ。

「ラングランズの着想が強力だと言うのは、混沌として見える数論のデータに秩序を与え、対称性と調和に満ちた規則的なパターンにするために役立つからなのである」

1993年にワイルズが、志村-谷山-ヴェイユ予想を証明したと発表したが、それから数か月後、彼の証明には一か所ギャップが含まれていることが分かった。しかし、それから一年後ワイルズはリチャード・テイラーの協力を得て、そのギャップを埋めることができた。二人は力を合わせて証明を完成させた

志村-谷山-ヴェイユ予想は、任意の三次方程式について(ある種の穏やかな条件に従うものとして)、素数を法とする解の個数は、あるモジュラー形式の係数であると述べている。さらに、その三次方程式と(ある種の)モジュラー形式とのあいだに、一対一対応が成り立つというのである。
アイヒラーの得た結果は「三次方程式の中には、pを法とする解の個数がモジュラー形式の係数になっているものがある」というものだった。しかし、「全て」の三次方程式についてそれが言えるというのは、当時としては突拍子もないアイディアだった。それをやってのけたのが谷山豊だった。

谷山は1955年に東京と日光で開かれた代数的数論についての国際シンポジウムで提起した。なぜ谷山はこんな馬鹿げたアイディアを信じるようになったのか、こんなことを人前で発言する勇気を持てたのか?それは谷山が1958年に31歳で自殺したため、永遠の謎となった。

悲劇的なことに、谷山の婚約者も次の書置きを残して自殺した。「わたしたちは何があってもけっして離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、わたしもいっしょに逝かなければなりません」

谷山の予想は、友人であり研究仲間でもあった志村五郎の手でより厳密なものにされた。志村はその生涯の大半をプリンストンで過ごし、現在は名誉教授となっている。

志村によると谷山は「けっして杜撰というわけではなかったが、たくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。私にはそれがうらやましく、真似しようとしてみたが無駄だった。そしてわかったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだ」

ヴェイユのロゼッタストーン

「数論」、「有限体上の曲線」、「リーマン面」

ガロアが二十歳のとき決闘で死ぬ前日に書いた数学の原稿。「もう時間がない」とも書かれている。ガロアが二十歳で死んだのはもったいない。
二次方程式の解の公式を最初に記したのはアル=フワーリズミ。アル=フワーリズミの本『アル=ジャブルとアル=ムカーブラの書』。アル=ジャブルというアラビア語は「入れ替え」や「完成」という言葉と関係がある。英語の代数(algebra)の語源となった。
アル=フワーリズミの名前が長い間アルゴリズミと間違って発音されて、その後アルゴリズムという言葉ができたとフレンケル。へえ、そうだったんだ。

三次方程式の解の公式が初めて掲載された書籍、カルダーノの『アルス・マグナ 代数の根本』。

実際に公式を導いたのはタルタリアで、カルダーノは公表しない約束でタルタリアに教えてもらったのに、本に書いて自分の手柄にしてしまった。

現在、カルダーノの公式と呼ばれているものの正式名はデル・フェッロの公式、またはデル・フェッロ/タルタリアの公式。デル・フェッロも独自に導出。タルタリアは残りの人生をカルダーノの業績ではなく自分の業績だと説得して回ることになる。

カルダーノの弟子、ルドヴィコ・フェラーリは4次方程式の解の公式を発見した。
タルタリアはカルダーノに騙されたと激怒していた。タルタリアはカルダーノと計算の勝負をしようとしたが、なぜかカルダーノの弟子のフェラーリと勝負することになった。結果はフェラーリの圧勝で、タルタリアは仕事を失い破滅した。

カルダーノって本当に悪い奴だなあ。タルタリア可哀想。
ガロアのひらめき、「方程式の解の公式を累乗根で書けるかどうかは、対称性の群の構造を調べれば分かる」
4次までは可解 solvble、5次以上は可解でなくなる。可解である群とは、「可換」か「非可換」かということに関係している。可換 commutativeは、順番を入れ替えても結果は同じ。非可換は順番を入れ替えると結果が変わる。
「リー代数」、「リー群」の名前は発明者であるノルウェーの数学者ソフス・リーに因んでいる。二谷友里恵ではない。

簡単に言うと、リー群は、その元が多様体上の点になっているような群である。二谷友里恵の群れではない。したがって、リー群という概念は、群と多様体という、二つの異なる数学的概念の結婚から生まれたこどもなのだ。二谷英明と白川由美の子供ではない。
自然界に現れる多くの対称変換は、リー群によって記述することができる。リー群の研究が非常に重要なのはそのためだ。

数学的概念の系統樹


『数学の大統一に挑む』の11章、フレンケルに着想を与えた論文は、日本の数学者、脇本実が書いたものだった。

ワイルズとテイラーが1995年に「志村・谷山・ヴェイユ予想」を証明したことでフェルマーの最終定理が証明された。志村・谷山・ヴェイユ予想はラングランズ・プログラムの特殊なケースとなっている。

複雑な数論の問題をたった一つの調和解析の数式で解くことができるのは魔法のようだ。


モジュラー形式は単位円と呼ばれる領域で定義された関数で非常に美しい対称性を持つ。
志村・谷山・ヴェイユ予想「あらゆる三次方程式の解を数える数論の問題に対し、その答えを導く調和解析のモジュラー形式が存在する」

「どうしたらこんな思い切った洞察で革命的な発見ができたのか私はずっと不思議に思っていた」とフレンケル教授
数学の研究こそひらめきや直感が不可欠で、それはコンピュータでは代替できない。「このような発見をするとき、普通の思考とは違う何か別の力が働くんだ」
谷山はこの予想を発表した後、自殺する。遺書には「ただ気分的に言えるのは将来に対する自信を失ってしまった。私の行為がある種の裏切りであることは否定できませんが、最後のわがままと捉えてください。私がこれまでの人生で行ってきたように」と
谷山の婚約者も後を追い自ら命を絶つ。

志村が谷山に寄せた言葉。「彼が生きていたときよりも今の方がずっと強く彼の高潔な寛大さを感じる。それなのに彼が切に支えを必要としていたとき誰も彼の支えとなれなかった。このことを思うと私は深い悲しみに打ちのめされる」

「ペレストロイカの成果のひとつに、人々が大幅に自由に外国に出かけられるようになったことがある」
フレンケルがハーバード大にいたときの数学科所属: ヨシフ・ベルンシュタイン、ラウル・ボット、ディック・グロス、ダヴィート・カズダン、弘中平祐、バリー・メイザー、ジョン・テート、シン=トゥン・ヤウなど
ボーリャ・フェイギンの友人のサーシャ・ベイリンソンはMITの教授になっていた。その講義にヴィクター・カッツが出ていた。
「ラングランズ・プログラムとは、要するにガロア群の表現と保型関数とのあいだに、ひとつの関係性を打ち立てようとすることである」
「自然数は集合を作るが、ベクトル空間は、もっと洗練された構造を作る。その構造のことを、数学者は圏(カテゴリー)と呼んでいる」
「グロタンディークが現代数学におよぼした影響は絶大で、これに関して彼に比肩する者はいないと言ってよい」

ウラディーミル・ドリンフェルドは17歳で初めての論文を発表し20歳でラングランズ・プログラムにおいて新天地を切り開た。しかし反ユダヤ主義によってモスクワではポストを得ることができなかった。彼は基本的にひとりで仕事をし、数学と物理の広い分野で驚くべき成果を上げ続けた。
現実の彼は、とても穏やかで親切だった。話しぶりはおっとりして、口にする言葉には、注意深く重みがつけられ、数学について彼が話すのを聞くと、明快に話すとは、こういうことかと思わされた。
ウラディーミル・ドリンフェルドもフィールス賞を受賞している。

「1970年代に物理学者たちは、電磁気理論の双対性を、いわゆる非可換ゲージ理論に拡張しようとしていた。ここでいう非可換ゲージ理論は、核力を記述する理論である」
「核力には「強い力」と「弱い力」という二種類の力がある。「強い力」は、陽子や中性子などの内部にクォークを閉じ込めている力であり、「弱い力」は、放射性崩壊のような現象を引き起こす力である」
「どんなゲージ理論でも、その中核はリー群であり、そのリー群のことを「ゲージ群」と呼ぶ。」

プリンストン高等研究所のウィッテンは高度に洗練された量子物理学の仕掛けを使って、純粋数学の驚くべき事実を発見したり、予想をしており、在命する最も偉大な理論物理学者のひとり。彼は物理学者として初めてフィールズ賞を受賞している。



「DARPAは百数十人のプログラムマネジャーを擁し、各マネジャーは大きな裁量権を持ち、強力なリーダーシップによってプロジェクトを運営していく」
数億ドルもの費用がかかる加速器が、国家の防衛に役立つかと尋ねられたフェルミ国立加速器研究所初代所長ロバート・ウィルソンの有名な答え。

NSFからDARPAに移籍することになったベン・マンには、ハイリスク/ハイリワードのプロジェクトを担当するだけのヴィジョンと勇気があったし、計画を実行に移すために必要なスタッフを探し出し、その人たちのアイディアを最大限に生かそうとする配慮もあった。
圧倒的な知的オーラを放つウィッテン。「彼が何か言うときは、つねにぎりぎりまで言葉を切り詰め、無駄がなく、正確で、水も漏らさぬ論理で組み立てられているように感じる。」
「ウィッテンは言うべきことを組み立てるために、何のためらいもなく言葉を切って、長い沈黙を置く。そんなときの彼は、しばしば目を閉じ、頭を前に傾ける」
 「素粒子には、フェルミ粒子とボース粒子という二つのタイプがある。フェルミ粒子(電子やクォークなど)は、物質を作り上げている粒子であり、ボース粒子(光子など)は、力を運ぶ粒子である」。ヒッグス粒子もボース粒子。

"Electric-Magnetic Duality And The Geometric Langlands Program" Kapustin and Witten(2007)


"GEOMETRIC ENDOSCOPY AND MIRROR SYMMETRY" Frenkel and Witten(2008)


"Gauge Theory and Langlands Duality" Frenkel(2009)


"Higgs Bundles, Past and Present" Nigel Hitchin(2012)(video) 

The Two-Body Problem
三島の『憂国』に影響を受けてフレンケルが作った映画なのだそうだ。

愛の数式の刺青に使われた数式

2015年11月17日火曜日

『アダム・スミスとその時代』

ニコラス・フィリップソンの『アダム・スミスとその時代』、訳者があとがきに書いているように、「スミスの思想を前面に出して、彼の生涯に一貫性のある説明を与えた評伝はほかにないのではないか」と思う。
エピクテトスの『提要』。アダム・スミスも読んでいたらしい。「こうした著作からスミスは、道徳の世界について考察方法や、その中で生きていこうとする際の問題を論じるのに使う言葉を手に入れた」
「長年にわたり『提要』は、聡明で育ちのいい男子生徒にとって有効な倫理学の入門書と見なされており、ストア主義倫理学の基礎となるテクストのひとつだった」
「何世代にもわたって生徒たちは、自由とは自制の術を覚えること、つまり人生において制御できる局面とできない局面とを区別するようになることだと教わってきた」
「エピクテトスは「身体、財産、評判、地位、一言でいうなら自身の行為と無関係なものについて、私たちに責任はない」と述べているが、彼の見解ではそれらはどうでもいいことであり、耐え忍ぶか忌み嫌うかすべき対象である」
「その一方で情念や意見、判断、「一言でいうならわれわれの行為に含まれるものは何であれ」制御可能なものであり、知能と理性の助けを借りて制御や統制ができる道徳的能力の源泉はここにある」
アダム・スミスはキケロの『義務論』も読んでいただろうと。
スミスは「悪液質〔衰弱〕の気があり、人好きのするたたずまいでなく、話し方は不器用であった。頻繁に上の空になるので、何も考えていないような印象を与え、愚鈍だとさえ思われた」
アダム・スミスに影響を与えた人はフランシス・ハチスンとデイヴィッド・ヒューム。それからケネー。
アダム・スミスは大学で修辞学や法学を教えていたんですね。
政治的安定と正義の感覚に密接に関係しているのは「国に豊かさや潤沢さをもたらす適切な手段、すなわちあらゆる種類の財貨の低価格である。というのも、低価格は豊かさの必然的結果であり、豊かさと低価格というこれらの用語は、ある意味で同義語であるからだ」とアダム・スミスは言い切った。
「国家の状態を最低の野蛮から最上の豊かさにまで引き上げるには、平和と多少の税と正義さえあればよい。そのほかは自然の成り行きでうまくいく」
大学でのアダム・スミスの講義は非常に人気があったそうだ。「彼は学生の勉強を指導すること、彼らの不安を解決すること、彼らの人生計画に合わせた助言をすることに大きな喜びを感じていた」。スミスは自分が行った教育によって一種のカルト的な存在になった。
アダム・スミスが用意した理論では、「道徳的な遭遇は双方向のものであり、あなたの行為に対し共感的感覚をもとうとする私の試みは、私の行為に対し共感的感覚をもとうとするあなたの試みとして報われるということが示されている」「道徳とは、報いある感情の取引が成立すると期待しつつ行われる、感情の交換の問題であるということが明らかになった。スミスは道徳がやりとりされる市場の様子を描いたのであり、もともと彼の分析の主眼は、この原理におかれていたのである」
アダム・スミスの『道徳感情論』のキーワードは「共感 sympathy」
近世ヨーロッパでは、名家の子息に付ける家庭教師を大学で漁るのが普通で、学者たちはたいていの場合に大学の職を辞し、庇護者の家庭に入った。シェルバーンとアダム・スミスの場合は異例で、シェルバーンは息子をグラスゴー大学に送り込むことにした。父親が望んだのは息子がスミスと一緒に暮らすことで、スミスは息子の教育について「何の縛りもなく保護と指導を全面的に」ゆだねられた。しかも最低でも100ポンドの報酬が支払われた。
スミスが彼のために立てた教育計画は恐るべきものだった。1月から5月までは大学でラテン語、ギリシア語、哲学、数学の講義を一日6時間受け、残りの2,3時間はスミスの個人授業に充てられた。夏季休暇はスミスと道徳哲学の古典と現代書(『法の精神〕など)を読みシムソンに数学の個人授業を受けた。
スミスが教えたシェルバーン伯爵の息子トマス・フィッツモーリスは一族代々の議席を引き継ぐ形で庶民院議員を務め、リネン産業に手を出して失敗すると、卒中によって生涯活動不能になってしまった。
フィッツモーリスには兄がいて、スミスが大学の用事でロンドンに出向いた際に同伴しているが、彼は後に第二代シェルバーン伯爵として首相になり、最も思慮深い政治家に数えられることになる。

スミスがバクルーの家庭教師に備えて注文した本はホメロスやウェルギリウス、アイスキュロスにエウリピデス、テオフラストス、キケロ、マルクス・アウレリウス、エピクテトスなど。
バクルーの家庭教師としてスミスに示された条件は破格の好待遇だった。スミスの教授としての収入が年150ポンドから200ポンドの間なのに対し、棒給500ポンドにその後は毎年300ポンドの終身年金がつく。スコットランド関税委員会の高収入ポストという公職の道も開かれる。スミスは即座に受諾。
スミスはバクルー公の家庭教師として大陸旅行に行った際に、パリでケネーらの重農学派の経済学者に、ジュネーブでかねてから敬愛していたヴォルテールに会っている。
スミスは道徳哲学の専門家だが、道徳哲学とは水田洋によれば「個人の行動を外から押さえ込むためのものではなくて、各個人が生存と幸福のために営む行為が、他人のそういう行動と矛盾せずに、社会的に平和共存が成り立つことが、どうすれば可能かをたずねる学問」のこと。スミスの見解は「各個人が利己的な行動をとっても社会的に秩序が成り立つのは「同感」の介在によるものであった。つまり、各個人の利己的な行動は、他人の共感が得られる限り、社会的に正当であると判断されるので、各個人は他人の同感が得られる程度にまで自己の行動や感情を抑制せざるをえない」
ただし、「同感」といっても、スミスが考えているのは、友人や知人の「同感」ではなく、「注意深い、事情に精通した公平な傍観者」の「同感」である。
パリから戻り、しばらくロンドンで過ごした後、アダム・スミスは生まれ故郷のカーコーディに引きこもり、『国富論』の執筆に集中する。「スミスの作業の中心は、グラスゴー大学時代に自身が生み出した経済学の原理について、ケネーとその弟子たちによるものと比べながら熟考し、持論の有効性を支える歴史上の膨大な実例を組み立て洗練させていくことだった、というのはまず間違いないようである」「ケネーが経済学を数学に基づいた精密な学問にできると考えたのに対し、スミスはヒューム的な見解から少しも離れようとはせず、哲学の理論がせいぜい訴えかけられるのは悟性に対してまでであって、読者から見てその理論が信用できるかどうかは、日常生活や歴史からもってきた例を使って哲学者が自分の原理を説明する、その技量にかかっていると考えた」

『国富論』執筆中にヒュームに宛てたスミスの手紙、「ここでの私の仕事は研究で、この一か月ばかりのあいだ、とても熱心に打ち込んでいます。私の楽しみは海辺を一人、長い時間をかけて散歩することです。私の時間の過ごし方について、どうこう言ってもらってもかまいません」「ですが私個人は、きわめて楽しく、心地よく、満足に感じています。ひょっとしたら、こんなことは自分の人生のなかで一度もなかったかもしれません」。そうした一人ぼっちの長い散歩が、部屋着のガウンを羽織ったまま、思索にふけりながらダンファームリンまで15マイルを歩く旅になったこともあり、ダンファームリンにある教会の鐘の音がしてようやく打ち切ることができた。

スミスにとって、ヨーロッパ大陸の豊かさの進歩がイングランドよりも遅れた根本原因は封建性だった。個人は誰しも「通常は公共の利益を推進しているつもりもなければ、どれほど推進しているのか分かっているわけでもない」「国外よりも国内の勤勉な働きを支えることを選ぶというのは、わが身の安定だけしか考えていないのであり、またその働きを、生産物の価値が最大になるように差し向けるのは、自分の儲けしか考えていないのである」それでも他の多くの場合と同じく、この場合においても、見えざる手に導かれて、自分の意図にはまったくなかった目的を推進することになる」

「若者の大部分はとても寛大なので、教師の教えたことを無視したり軽蔑したりしようとするどころか、教師が彼らの役に立とうという意思を真剣に示すかぎり、職分を果たすうえでかなりの間違いがあっても普通はそれを許そうとするものであり、場合によっては、ひどく重大な過失であっても、世間の目からは隠そうとすらする」

スミス「教育を受けた知的な人は、無知で愚かな人よりも必ず礼儀があり規律正しい。彼らは一人ひとりが、自分は個人として恥ずかしくない人間であり、法律上自分より地位の高い人々から敬意を受けるにふさわしいと自覚していて、そのため目上の人々に敬意を払う傾向もより強くなる」スミスによれば、民衆に教育を提供するうえで主権者が役に立ちうることといえば、せいぜい「一般の娯楽を頻繁で楽しめるものにすること、…絵画や詩や音楽や舞踏によって人々を楽しませ、気晴らしを与えようとする人々すべてに、完全な自由を与えること」しかない。というのも、これによって「必ずといっていいほど民衆の盲信や狂信の温床になる陰気な暗い気分を・・・容易に発散させてしまう」からだ。

「『国富論』も大元のところは、『道徳感情論』や執筆に利用した講義と同じように、同時代の人に向けて、自分と自分が相手にすべき人の人生を道徳・政治・知性の面からうまく御するようにと呼びかけたものであるからだ」
「『国富論』というのは為政者のために書いた本であって、学生のために書いたものではなかった」

スチュワートの描くスミスは、親切で物腰柔らかな、かわいらしい奇人であり、「たしかに世の中の通常のやりとりや、実務生活には適していない」
スミスは終始思索に耽って我を忘れることにかけては天才的で、「ふだん馴染みのないものや日常的な出来事には注意を払わないのがいつもの癖」になっている。
客人を迎えているときですら、「自分の研究に夢中になりがちで、ときどき唇の動きや表情、身振りから、一心不乱に総合的な推論をしているように見えた」。
面識のない者は、普通の会話に入ってくる能力がスミスにないことや「自分の考えを伝えようとすると講義形式になってしまう」癖に面食らう。

アダム・スミスに俄然親近感がわく。

ただし、スチュワートの描く浮世離れした思想家という人物像は、スミスが大学の運営において大変に優れた能力を持っていたこと、国家財政についての助言を閣僚たちが尊重したことや、謹厳実直な関税委員という職歴にも合わない。おそらく普段の社交生活や談話はスミスにはつまらなかったのだろうが、彼は温和で優しすぎたうえ、友人との人付き合いなしでもやっていける徹底した世捨て人というには、ほど遠かったのだろう。彼はすぐに人と親しくなることができたし、親しくなった者とは一生交友を続けた。
「ひょっとしたら、スミスの人生と思想において一番変わらない特徴とは、謙虚さだったのかもしれない」
『道徳感情論』も『国富論』も、人間学という、時間的・体力的に扱いきれなくなってしまった、より大きな計画の一部だった。

アダム・スミスとその時代』でも参照されているこの本はKindleで0円。
Life of Adam Smith (English Edition) John Rae