2015年11月17日火曜日

『アダム・スミスとその時代』

ニコラス・フィリップソンの『アダム・スミスとその時代』、訳者があとがきに書いているように、「スミスの思想を前面に出して、彼の生涯に一貫性のある説明を与えた評伝はほかにないのではないか」と思う。
エピクテトスの『提要』。アダム・スミスも読んでいたらしい。「こうした著作からスミスは、道徳の世界について考察方法や、その中で生きていこうとする際の問題を論じるのに使う言葉を手に入れた」
「長年にわたり『提要』は、聡明で育ちのいい男子生徒にとって有効な倫理学の入門書と見なされており、ストア主義倫理学の基礎となるテクストのひとつだった」
「何世代にもわたって生徒たちは、自由とは自制の術を覚えること、つまり人生において制御できる局面とできない局面とを区別するようになることだと教わってきた」
「エピクテトスは「身体、財産、評判、地位、一言でいうなら自身の行為と無関係なものについて、私たちに責任はない」と述べているが、彼の見解ではそれらはどうでもいいことであり、耐え忍ぶか忌み嫌うかすべき対象である」
「その一方で情念や意見、判断、「一言でいうならわれわれの行為に含まれるものは何であれ」制御可能なものであり、知能と理性の助けを借りて制御や統制ができる道徳的能力の源泉はここにある」
アダム・スミスはキケロの『義務論』も読んでいただろうと。
スミスは「悪液質〔衰弱〕の気があり、人好きのするたたずまいでなく、話し方は不器用であった。頻繁に上の空になるので、何も考えていないような印象を与え、愚鈍だとさえ思われた」
アダム・スミスに影響を与えた人はフランシス・ハチスンとデイヴィッド・ヒューム。それからケネー。
アダム・スミスは大学で修辞学や法学を教えていたんですね。
政治的安定と正義の感覚に密接に関係しているのは「国に豊かさや潤沢さをもたらす適切な手段、すなわちあらゆる種類の財貨の低価格である。というのも、低価格は豊かさの必然的結果であり、豊かさと低価格というこれらの用語は、ある意味で同義語であるからだ」とアダム・スミスは言い切った。
「国家の状態を最低の野蛮から最上の豊かさにまで引き上げるには、平和と多少の税と正義さえあればよい。そのほかは自然の成り行きでうまくいく」
大学でのアダム・スミスの講義は非常に人気があったそうだ。「彼は学生の勉強を指導すること、彼らの不安を解決すること、彼らの人生計画に合わせた助言をすることに大きな喜びを感じていた」。スミスは自分が行った教育によって一種のカルト的な存在になった。
アダム・スミスが用意した理論では、「道徳的な遭遇は双方向のものであり、あなたの行為に対し共感的感覚をもとうとする私の試みは、私の行為に対し共感的感覚をもとうとするあなたの試みとして報われるということが示されている」「道徳とは、報いある感情の取引が成立すると期待しつつ行われる、感情の交換の問題であるということが明らかになった。スミスは道徳がやりとりされる市場の様子を描いたのであり、もともと彼の分析の主眼は、この原理におかれていたのである」
アダム・スミスの『道徳感情論』のキーワードは「共感 sympathy」
近世ヨーロッパでは、名家の子息に付ける家庭教師を大学で漁るのが普通で、学者たちはたいていの場合に大学の職を辞し、庇護者の家庭に入った。シェルバーンとアダム・スミスの場合は異例で、シェルバーンは息子をグラスゴー大学に送り込むことにした。父親が望んだのは息子がスミスと一緒に暮らすことで、スミスは息子の教育について「何の縛りもなく保護と指導を全面的に」ゆだねられた。しかも最低でも100ポンドの報酬が支払われた。
スミスが彼のために立てた教育計画は恐るべきものだった。1月から5月までは大学でラテン語、ギリシア語、哲学、数学の講義を一日6時間受け、残りの2,3時間はスミスの個人授業に充てられた。夏季休暇はスミスと道徳哲学の古典と現代書(『法の精神〕など)を読みシムソンに数学の個人授業を受けた。
スミスが教えたシェルバーン伯爵の息子トマス・フィッツモーリスは一族代々の議席を引き継ぐ形で庶民院議員を務め、リネン産業に手を出して失敗すると、卒中によって生涯活動不能になってしまった。
フィッツモーリスには兄がいて、スミスが大学の用事でロンドンに出向いた際に同伴しているが、彼は後に第二代シェルバーン伯爵として首相になり、最も思慮深い政治家に数えられることになる。

スミスがバクルーの家庭教師に備えて注文した本はホメロスやウェルギリウス、アイスキュロスにエウリピデス、テオフラストス、キケロ、マルクス・アウレリウス、エピクテトスなど。
バクルーの家庭教師としてスミスに示された条件は破格の好待遇だった。スミスの教授としての収入が年150ポンドから200ポンドの間なのに対し、棒給500ポンドにその後は毎年300ポンドの終身年金がつく。スコットランド関税委員会の高収入ポストという公職の道も開かれる。スミスは即座に受諾。
スミスはバクルー公の家庭教師として大陸旅行に行った際に、パリでケネーらの重農学派の経済学者に、ジュネーブでかねてから敬愛していたヴォルテールに会っている。
スミスは道徳哲学の専門家だが、道徳哲学とは水田洋によれば「個人の行動を外から押さえ込むためのものではなくて、各個人が生存と幸福のために営む行為が、他人のそういう行動と矛盾せずに、社会的に平和共存が成り立つことが、どうすれば可能かをたずねる学問」のこと。スミスの見解は「各個人が利己的な行動をとっても社会的に秩序が成り立つのは「同感」の介在によるものであった。つまり、各個人の利己的な行動は、他人の共感が得られる限り、社会的に正当であると判断されるので、各個人は他人の同感が得られる程度にまで自己の行動や感情を抑制せざるをえない」
ただし、「同感」といっても、スミスが考えているのは、友人や知人の「同感」ではなく、「注意深い、事情に精通した公平な傍観者」の「同感」である。
パリから戻り、しばらくロンドンで過ごした後、アダム・スミスは生まれ故郷のカーコーディに引きこもり、『国富論』の執筆に集中する。「スミスの作業の中心は、グラスゴー大学時代に自身が生み出した経済学の原理について、ケネーとその弟子たちによるものと比べながら熟考し、持論の有効性を支える歴史上の膨大な実例を組み立て洗練させていくことだった、というのはまず間違いないようである」「ケネーが経済学を数学に基づいた精密な学問にできると考えたのに対し、スミスはヒューム的な見解から少しも離れようとはせず、哲学の理論がせいぜい訴えかけられるのは悟性に対してまでであって、読者から見てその理論が信用できるかどうかは、日常生活や歴史からもってきた例を使って哲学者が自分の原理を説明する、その技量にかかっていると考えた」

『国富論』執筆中にヒュームに宛てたスミスの手紙、「ここでの私の仕事は研究で、この一か月ばかりのあいだ、とても熱心に打ち込んでいます。私の楽しみは海辺を一人、長い時間をかけて散歩することです。私の時間の過ごし方について、どうこう言ってもらってもかまいません」「ですが私個人は、きわめて楽しく、心地よく、満足に感じています。ひょっとしたら、こんなことは自分の人生のなかで一度もなかったかもしれません」。そうした一人ぼっちの長い散歩が、部屋着のガウンを羽織ったまま、思索にふけりながらダンファームリンまで15マイルを歩く旅になったこともあり、ダンファームリンにある教会の鐘の音がしてようやく打ち切ることができた。

スミスにとって、ヨーロッパ大陸の豊かさの進歩がイングランドよりも遅れた根本原因は封建性だった。個人は誰しも「通常は公共の利益を推進しているつもりもなければ、どれほど推進しているのか分かっているわけでもない」「国外よりも国内の勤勉な働きを支えることを選ぶというのは、わが身の安定だけしか考えていないのであり、またその働きを、生産物の価値が最大になるように差し向けるのは、自分の儲けしか考えていないのである」それでも他の多くの場合と同じく、この場合においても、見えざる手に導かれて、自分の意図にはまったくなかった目的を推進することになる」

「若者の大部分はとても寛大なので、教師の教えたことを無視したり軽蔑したりしようとするどころか、教師が彼らの役に立とうという意思を真剣に示すかぎり、職分を果たすうえでかなりの間違いがあっても普通はそれを許そうとするものであり、場合によっては、ひどく重大な過失であっても、世間の目からは隠そうとすらする」

スミス「教育を受けた知的な人は、無知で愚かな人よりも必ず礼儀があり規律正しい。彼らは一人ひとりが、自分は個人として恥ずかしくない人間であり、法律上自分より地位の高い人々から敬意を受けるにふさわしいと自覚していて、そのため目上の人々に敬意を払う傾向もより強くなる」スミスによれば、民衆に教育を提供するうえで主権者が役に立ちうることといえば、せいぜい「一般の娯楽を頻繁で楽しめるものにすること、…絵画や詩や音楽や舞踏によって人々を楽しませ、気晴らしを与えようとする人々すべてに、完全な自由を与えること」しかない。というのも、これによって「必ずといっていいほど民衆の盲信や狂信の温床になる陰気な暗い気分を・・・容易に発散させてしまう」からだ。

「『国富論』も大元のところは、『道徳感情論』や執筆に利用した講義と同じように、同時代の人に向けて、自分と自分が相手にすべき人の人生を道徳・政治・知性の面からうまく御するようにと呼びかけたものであるからだ」
「『国富論』というのは為政者のために書いた本であって、学生のために書いたものではなかった」

スチュワートの描くスミスは、親切で物腰柔らかな、かわいらしい奇人であり、「たしかに世の中の通常のやりとりや、実務生活には適していない」
スミスは終始思索に耽って我を忘れることにかけては天才的で、「ふだん馴染みのないものや日常的な出来事には注意を払わないのがいつもの癖」になっている。
客人を迎えているときですら、「自分の研究に夢中になりがちで、ときどき唇の動きや表情、身振りから、一心不乱に総合的な推論をしているように見えた」。
面識のない者は、普通の会話に入ってくる能力がスミスにないことや「自分の考えを伝えようとすると講義形式になってしまう」癖に面食らう。

アダム・スミスに俄然親近感がわく。

ただし、スチュワートの描く浮世離れした思想家という人物像は、スミスが大学の運営において大変に優れた能力を持っていたこと、国家財政についての助言を閣僚たちが尊重したことや、謹厳実直な関税委員という職歴にも合わない。おそらく普段の社交生活や談話はスミスにはつまらなかったのだろうが、彼は温和で優しすぎたうえ、友人との人付き合いなしでもやっていける徹底した世捨て人というには、ほど遠かったのだろう。彼はすぐに人と親しくなることができたし、親しくなった者とは一生交友を続けた。
「ひょっとしたら、スミスの人生と思想において一番変わらない特徴とは、謙虚さだったのかもしれない」
『道徳感情論』も『国富論』も、人間学という、時間的・体力的に扱いきれなくなってしまった、より大きな計画の一部だった。

アダム・スミスとその時代』でも参照されているこの本はKindleで0円。
Life of Adam Smith (English Edition) John Rae

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