2016年1月16日土曜日

『ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相 Stress Test』


図書館で『ガイトナー回顧録 金融危機の真相 Stress Test』を借りてきたので、成人の日の三連休で読んだ。エピソードは豊富だけど考察や記述が浅い気もする。しかし、金融危機や金融規制に興味のある人にはポールソン、バーナンキの回顧録とともに必読だと思う。

前半は、IMFでのアジア危機からNY連銀理事としてのリーマンショックまででなかなか面白い。財務長官になって以降の後半は危機が欧州に移り、米国での議会とのやり取りや細かい規制の話になってやや退屈。

ガイトナーが財務長官になって初めてオバマ大統領に挨拶した時、私たちは今も「金融の爆弾」を5つ抱えていて、爆発しないように処理しないといけないと報告。その5つはファニーメイ、フレディマック、AIG、シティグループ、バンク・オブ・アメリカ。ガイトナーの補佐官はシティグループとバンク・オブ・アメリカの二行を金融界の宇宙要塞”デス・スター”と呼んでいた。

「ルービンはかつてゴールドマン・サックスの共同会長だったが、謙虚でユーモアがあり、ラリーのように棘はないが、要求が厳しかった。優良なプロセスを信奉していた。すべての補佐官の意見を、相手がヒエラルキーのどこにいようが、たとえ反対意見でも求めた-いや、反対意見こそ聞きたがった。
 落ち着いて、感情を出さず、滑稽なくらい細心で、あらゆる角度から問題を分析した。罫線入りの黄色い用箋にリスクや可能性を走り書きし、情報を集め、どうしても決断を下さなければならなくなるまで、”選択の余地を温存した”。成り行きで決断を下してはいけない、そのとき手に入る情報からして合理的なときだけ決断するようにと、口を酸っぱくして私たちを諭した。ルービンの決断は、おおむねそうだった」

ガイトナーは親の仕事がら、子供のころに世界の様々なところで生活している。
「タイにいたことがあるからといって、そこの危機をきちんと洞察できるわけではなかった。感情移入はできるかもしれないが、タイを救うのに役立つような、それ以上の知識はなかった」

「ルービン、サマーズ、グリーンスパンをこよなく尊敬し、彼らが市場と金融イノベーションをおおむね是認しているのに同調した。しかし、三人をゆるぎない自由市場イデオローグだと通俗的に大づかみに戯画化するのは、フェアではない」

「グリーンスパンは、市場は理性的で効率的だというのを神意のごとく信じていた。また、政府の監督と規制が市場を安全にするという考えには心底疑いを抱いていた。それでも、新興市場の危機では私たちの金融救済を力強く支持した」

「三人のうち、市場で暮らしをたてていた唯一の人間だったルービンは、市場が英知と理性をそなえているということを、あまり信じていなかった。過大なレバレッジにたえず懸念を示してはいたが、政府にそれをどうこうする力はないと考えていた」

「ラリー(ポールソン)の世界観はふたりの中間のどこかだったが、当時はグリーンスパンのほうに近かっただろう。私には三人のような力強い確信はなかったが、性格的にルービンの考え方に近かった」

「商業銀行数千行の監督責任が、FRB、連邦預金保険公社(FDIC)、通貨監督庁(OCC)に分割され、州の銀行監督機関が50の異なるルールに基づいて指導していた。貯蓄金融機関監督局(OTS)は、「貯蓄金融機関」と呼ばれる、ローン市場専門の銀行を指導する」

「貯金を集める子会社は、自己資本の条件を満たしていなければならず、FRBの貸出窓口で融資を申し込めるが、もっと大きなリスクを抱えた系列会社や親会社は、通常、公的機関の監督を受けずに業務を行う」

「FRBはシティグループとJPモルガン・チェースの「持ち株会社」を監督する。持ち株会社は数百ある銀行やノンバンクの子会社を傘下に収める母体だが、FRBはそこの商業銀行や投資銀行は担当しない」

「FRBは金融機関全体を監視しなければならないが、法律によって、主要監督機関に従わなければならない。商業銀行の場合はOCC、投資銀行の場合はSECがそれにあたる。FRBは外国銀行のアメリカ系列会社の監督を、州の監督機関や、その銀行の本店がある世界中の監督機関と共同で行う」

シャドーバンキングの勃興。1980年代から07年にかけての金融セクター・クレジットのすさまじい増加は、ほとんど在来型の銀行システムの外で起きていた。銀行よりも制約が少なく、政府のセイフティネットを利用できない金融機関にリスクが移動



「音楽が流れている限り、私たちは立ち上がってダンスするしかない」
シティグループのチャールズ・プリンスCEO

アメリカの家計の負債のGDP比


『ガイトナー回顧録』の139ページ、「一般に金利を下げること(量的緩和政策)」となっているけど、誤訳かなあ。原著はどう書いてあるんだろう。金利を下げることは「量的」緩和政策ではないです。

「ベンは控え目な人物で、病的な興奮や誇張にとらわれることはない-私は「中央銀行界の仏陀」と呼んでいた-だが、1930年代の銀行家の二の舞にはならないと決意していた」

カントリーワイドは回転資金の大半をコマーシャルペーパーの発行でまかなっていた。またトライパーティ・レポという複雑な市場でも資金を調達していた。

「私は自分をタカ派だとかハト派だとかいうように考えたことはない。つねに実利を重んじ、どんな形でもイデオロギーは信じない。それにFRBの責務を二つとも真剣に受け止めている。しかし、クレジット不足のときにモラル・ハザードやインフレを持ち出すタカ派の妄執は、異様すぎるし腹立たしかった」

メリルリンチの損失の大部分はCDOだった。シティもメリルと同じようにCDOのスーパーシニア債を大量に抱えていた。このときシティの取締役にはあのルービンがいた。ルービンには経営責任も権限もなかったらしいが。

『ガイトナー回顧録』の180ページ、「TAFは確信的だったし」、だと意味が分からない。「革新的」の誤植か?

ベアー・スターンズもリーマン・ブラザーズも投資銀行なので直接の監督責任はSECであって、FRBではない。ただ金融システムは絡み合っているので結局金融システム全体への影響は避けられない。

「(ベアーの件を)私はリスク管理に失敗したよくある話だと見ている。ベアー・スターンズは短期の借入を使い過ぎていた」。「ベアーの一件のほんとうの教訓は、極度のレバレッジと短期借入の世界では、信用は一瞬にして消え、それとともに流動性も消えるということだ」

(リーマン破綻について)「私たちは一線を引いたのではなかった。私たちは恐れを知らないのではなく、力がなかったのだ。壊滅的な破綻を防ごうとして失敗したのだ。それがいまだに、あまり理解されていない」

投資銀行のゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーの破綻を回避するためにGSとシティ、MSとJPモルガンを合わせようとするが、それぞれが難色を示したとw。結局、MSは三菱東京UFJから90億ドル、GSはバフェットから50億ドル調達。

「「本当に必要なのは、負債を保証する権限ですよ」私はそう言った。」287p

米財務省に初代財務長官アレグザンダー・ハミルトンの像がある。ハミルトンは、アメリカの初代「ミスター救済」だった。像にはこんな言葉が刻まれている。「ハミルトンが公的信用の死体に触れると、それが蘇った」

「コロンブス記念日は銀行が休みだったので、三菱東京UFJ銀行の幹部は月曜日の朝にみずから90億ドルの小切手をモルガン・スタンレーに持参し、ディールを締結して、リーマン式の崩壊を防いだ」

「私はブッシュ減税、イラク戦争、社会問題についての保守的な見解には賛成できなかったが、危機の最中の行動には尊敬の念を抱いていた。イデオローグ色の強い共和党員としては、なみたいていのことではなかったはずだ」

「ブッシュが揺るがず、沈着冷静で、ハンクや私たちを強く支持したことは、大きな功績として認められるべきだ-マケイン上院議員やその他おおぜいの共和党議員とはまったく違う」

「危機に対するオバマ上院議員の平静で責任感のある取り組み方にも感心した。マケイン上院議員の躍起になって迎合する態度とは、正反対だ。オバマ上院議員はハンクとたえず連絡を保っていた。ハンクはオバマを絶賛していた」

ガイトナーはブッシュ政権下、つまりリーマンショック前後はNY FEDの総裁。オバマ政権で財務長官。

「2008年初頭アメリカの大手金融機関上位25行のうち13行が、破綻するか(リーマン、WaMu)、政府の救済を受けて破綻を避けたか(ファニーメイ、フレディマック、AIG、シティ、バンカメ)、破綻を逃れるために救済合併されたか(カントリーワイド、ベアー、メリルリンチ、ワコビア)、」

「あるいは破綻を逃れるために事業構造を変えた(モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス)。株式市場は2007年の最高値から40%以上下落した。私たちは前例のない方策を途方もない規模で行い、銀行システムの中核で起きた取り付けを減速させるのに成功した」

ターム物資産担保証券貸出ファシリティ(TALF)が消費者金融市場を復活させた


「ルービンはかつて、《ミート・ザ・プレス》での1分あたり約60分の予備演習をやった」

「ラリーも含めた専門家たちは、(世界最大のヘッジファンド)ブリッジウォーターの《デイリー・オブザベーションズ》をもっとも信用できる民間セクターの経済分析資料とみなしていた-銀行についての手厳しい分析のひとつでもある」


「今後の改革で最優先すべきなのは、金融機関に自己資本をもっと増やし、レバレッジをもっと減らして、もっとしっかりした流動性を維持するように求める、より堅実なルールを定めることだと、私はずっと考えていた」

各国の銀行の資産のGDP比。アメリカは相対的に小さい。


2008年1Qを100としたときの各国GDP


「ラリー・サマーズは、立場が苦しければ苦しいほどスリルをおぼえるという変わった人物で、私たちを可能性のぎりぎり限界まで押しやった。もっともやりづらい状況であっても、私はラリーの助言を高く買い、頼りにしていた」

ガイトナーが『回顧録』を書く際に比較した重要な書物として『ポールソン回顧録』、デービッド・ウェッセルの『バーナンキは正しかったか?』、アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』を挙げている

バーナンキもガイトナーも回顧録はエピソードが豊富なのだが、豊富すぎて、銀行破綻の本質的な部分はむしろダフィーの薄い本の方が分かりやすいかもしれないと思った。

巨大銀行はなぜ破綻したのか ―プロセスとその対策 ダレル・ダフィー

ダフィーの翻訳は薄いわりに定価が高いのが難点。英文はネットで探せば見つかると思う。

"How Big Banks Fail and What to do About It" Darrell Duffie(2010)(pdf)
『巨大銀行はなぜ破綻したのか』の英文ドラフト

「経済学において、銀行の安定性についての標準的な分析」
"Bank Runs, Deposit Insurance, and Liquidity" Diamond and Dybvig(1983)(pdf)

2016年1月9日土曜日

世銀2030年試算によると日本はTPPの恩恵が大きい


1/8の日経、「TPP、日本に恩恵大きく」。14年のGDPと輸出額を基準に30年時点の押し上げ効果を試算するとGDPは2.7%、輸出は23.7%で、12カ国中6位と2位。

元ネタは世銀の"Global Economic Prospects"ではないかと思います。
PDFで22MBあります。

推計は19セクター、29地域のdynamic computable general equilibrium(CGE)モデルを使用。

モデルはこれっぽい。"Armington Meets Melitz: Introducing Firm Heterogeneity in Global
CGE Model of Trade" Zhai(2006)

2016年1月4日月曜日

バーナンキの回顧録「危機と決断」(上)

バーナンキの回顧録「危機と決断」は、バーナンキとFRBがどういう経済分析のもとでどのように意思決定をしてきたかが率直かつ明晰に語られていて、金融政策やマクロ経済に興味のある人には是非ともお勧めしたい。この明晰さは彼の経済学者としてのバックグラウンドから来るもので、前任者と対照的。

バーナンキはハーバード大学でデール・ジョンゲルソン教授に計量経済学と統計分析を学んだ。彼のもとで、政府のエネルギー政策が経済全体におよぼす影響についてのリサーチを行い、それは彼の学位論文の基礎になった。最優秀で卒業すると大学院は経済学の博士課程で最高とされていたMITを選んだ。

理数系のMITに世界最高峰の経済学課程が置かれたのは、サミュエルソンがハーバードから移ってきたことがキッカケだった。サミュエルソンの数学的なアプローチは保守的なハーバードでは受け入れられず、一部の根強い反ユダヤ主義もあった。ロバート・ソローも後を追うようにやってきた。

「多くの革新的な方法論が用いられたこともあり、新しい古典派は大きな反響を呼んだ。私(バーナンキ)の大学院時代、最も興味深い研究の多くは新しい古典派の影響を受けていた。しかし、多くの経済学者は、ケインズ理論にも欠点があることを認めつつも、新しい古典派もしっくりこないと感じていた。とくに、金融政策は雇用や生産性に短期間の効果しかもたらさないという点が引っかかるのだ。それは、1980年代はじめにポール・ボルカー議長率いるFRBが、経済を沈静化させインフレ率を下げるため金利を急激に引き上げたことで、いっそう顕著になった。ボルカーの政策はインフレを克服はしたが、深刻で継続的な景気後退をもたらした。これは、そのようなことは起きないと唱えていた新しい古典派の説に反するものだった。新しい古典派の洞察力と技術的進歩を現代的ケインズ主義の中に組み込もうとした学者たちもいた。MITでは、北ローデシア出身のスタンレー・フィッシャーもそのひとりだった。

「新しい古典派とケインズ思想を融合させようとした彼らの仕事は、いわゆるニューケインジアン理論として結実し、今日の主流派経済学者たちの思考のほとんどはこれに基づいている」

「ニューケインジアンは新しいモデルや手法を使い、賃金や物価の硬直性は市場の需給バランスを長期間悪化させるという説を復活させた。それは、景気後退は資源の無駄であり、経済を完全雇用に近い状態で維持するためには財政・金融政策の役割が必要だというケインズ理論の原点に立ち返ったものだった」

バーナンキは「研究を重ねるにつれ、新しい古典派アプローチの要素も含めさまざまな考え方を融合させたニューケインジアン理論が、実際の政策立案にはもっとも適していると確信するようになった」

バーナンキは大学院1年目の終わりにスタン・フィッシャーにマクロ経済学と金融政策を専門に研究したいと相した。スタンが貸してくれた何冊かの本の中にフリードマン=シュウォーツの『米国金融史 1867-1960』があった。バーナンキはそれに強く引き付けられた。

「FRBによる三回にわたるマネーサプライ縮小(1929年の株価暴落の前に一回、大恐慌の初期に二回)が大恐慌をあれほどまでに悪化させたという記述にはとくに引きつけられた。」

「フリードマンとシュウォーツの本を読んで、これこそ自分がやりたいことだと私は悟った。そして自分の全研究生活を通じて私はマクロ経済と経済政策の問題に集中することになった」

「私たち(バーナンキとガートラー、およびギルクリスト)が最も主張したかったのは、経済の安定のためには健全な金融システムの存在が非常に重要ということだった」

フランクリン・ルーズベルトの「大きな功績は、当時の常識を捨てて金本位制を廃止したことだろう。政府が保有する金の量によってマネーサプライが左右されることがなくなると、デフレは即座に終息した」

日銀は行動を起こすことを回避しようとしていると批判してきたバーナンキだが、自分がFRB議長になると今度は自分が政治家やマスコミや経済学者から「辛辣でやる気をそがれるような数々の批判を浴びる経験をして、私は初めて当時の自分の舌鋒鋭い非難の言葉を後悔した」

日本の新聞の特派員からの質問にはこう答えている。「10年前よりは日本のセントラルバンカーに同情的な気持ちだ」

教授たちのような「意思の強い、プライドの高い人たちに対しては、強権発動による問題解決はうまくいかないことがすぐにわかった。それぞれと向き合い、きちんと話を聞き、そしてさらに話を聞くことが大切」

「人は自分の懸念を表明する機会を与えられれば、結果に満足はしなくても納得してくれるということも学んだ」

グリーンスパンはインフレターゲッティングに懐疑的だったとバーナンキ。

「グリーンスパンの予測はコンピュータによるモデルや分析には重きを置かず、独特なボトムアップ方式によるものだった。彼はつねに、何百という小さな情報ひとつひとつに目を通していた。」

「FRBの経済モデルは、そして一般的に経済予測モデルはそうなのだが、金融不安への経済的な影響について織り込むことが下手である。それは、(幸いなことに)金融危機はまれにしか起きないので、関連データが少ないことにもよる」

1920年代のFRBの事実上のリーダー格だったNY連銀総裁ベンジャミン・ストロングは、株価高騰を抑える目的で金利を上げることに反対し、その理由をたとえ話になぞらえている。「金利を上げるのは、一人の子ども(株価)が悪さをしたからといって子ども全員に罰を与えるようなものだ」

1928年にストロングが亡くなると、後継者は彼のアプローチを無視して金利を上げた。「その結果は、1929年の株価暴落だけでなく、金融政策の過剰引締めによる大恐慌をも引き起こした。株式市場だけを対象として政策を実施したために、悲劇が起きてしまったのだ」

バーナンキ「私たちは、株式市場を一定の幅で動かしたいというのではなく、私たちの政策メッセージが理解されたかどうかを測る良い物差しとみていた」

FRBの理髪店でバーンズ、ボルカー、グリーンスパン、バーナンキと歴代の議長の髪を切り、「FRBヘアマン」の名刺を持つレニー・ギレオの店の壁には「私の通貨供給量は、あなたの髪の成長率に依存している」という言葉が掲げてある。