バーナンキの回顧録「危機と決断」は、バーナンキとFRBがどういう経済分析のもとでどのように意思決定をしてきたかが率直かつ明晰に語られていて、金融政策やマクロ経済に興味のある人には是非ともお勧めしたい。この明晰さは彼の経済学者としてのバックグラウンドから来るもので、前任者と対照的。
バーナンキはハーバード大学でデール・ジョンゲルソン教授に計量経済学と統計分析を学んだ。彼のもとで、政府のエネルギー政策が経済全体におよぼす影響についてのリサーチを行い、それは彼の学位論文の基礎になった。最優秀で卒業すると大学院は経済学の博士課程で最高とされていたMITを選んだ。
理数系のMITに世界最高峰の経済学課程が置かれたのは、サミュエルソンがハーバードから移ってきたことがキッカケだった。サミュエルソンの数学的なアプローチは保守的なハーバードでは受け入れられず、一部の根強い反ユダヤ主義もあった。ロバート・ソローも後を追うようにやってきた。
「多くの革新的な方法論が用いられたこともあり、新しい古典派は大きな反響を呼んだ。私(バーナンキ)の大学院時代、最も興味深い研究の多くは新しい古典派の影響を受けていた。しかし、多くの経済学者は、ケインズ理論にも欠点があることを認めつつも、新しい古典派もしっくりこないと感じていた。とくに、金融政策は雇用や生産性に短期間の効果しかもたらさないという点が引っかかるのだ。それは、1980年代はじめにポール・ボルカー議長率いるFRBが、経済を沈静化させインフレ率を下げるため金利を急激に引き上げたことで、いっそう顕著になった。ボルカーの政策はインフレを克服はしたが、深刻で継続的な景気後退をもたらした。これは、そのようなことは起きないと唱えていた新しい古典派の説に反するものだった。新しい古典派の洞察力と技術的進歩を現代的ケインズ主義の中に組み込もうとした学者たちもいた。MITでは、北ローデシア出身のスタンレー・フィッシャーもそのひとりだった。
「新しい古典派とケインズ思想を融合させようとした彼らの仕事は、いわゆるニューケインジアン理論として結実し、今日の主流派経済学者たちの思考のほとんどはこれに基づいている」
「ニューケインジアンは新しいモデルや手法を使い、賃金や物価の硬直性は市場の需給バランスを長期間悪化させるという説を復活させた。それは、景気後退は資源の無駄であり、経済を完全雇用に近い状態で維持するためには財政・金融政策の役割が必要だというケインズ理論の原点に立ち返ったものだった」
バーナンキは「研究を重ねるにつれ、新しい古典派アプローチの要素も含めさまざまな考え方を融合させたニューケインジアン理論が、実際の政策立案にはもっとも適していると確信するようになった」
バーナンキは大学院1年目の終わりにスタン・フィッシャーにマクロ経済学と金融政策を専門に研究したいと相した。スタンが貸してくれた何冊かの本の中にフリードマン=シュウォーツの『米国金融史 1867-1960』があった。バーナンキはそれに強く引き付けられた。
「FRBによる三回にわたるマネーサプライ縮小(1929年の株価暴落の前に一回、大恐慌の初期に二回)が大恐慌をあれほどまでに悪化させたという記述にはとくに引きつけられた。」
「フリードマンとシュウォーツの本を読んで、これこそ自分がやりたいことだと私は悟った。そして自分の全研究生活を通じて私はマクロ経済と経済政策の問題に集中することになった」
「私たち(バーナンキとガートラー、およびギルクリスト)が最も主張したかったのは、経済の安定のためには健全な金融システムの存在が非常に重要ということだった」
フランクリン・ルーズベルトの「大きな功績は、当時の常識を捨てて金本位制を廃止したことだろう。政府が保有する金の量によってマネーサプライが左右されることがなくなると、デフレは即座に終息した」
日銀は行動を起こすことを回避しようとしていると批判してきたバーナンキだが、自分がFRB議長になると今度は自分が政治家やマスコミや経済学者から「辛辣でやる気をそがれるような数々の批判を浴びる経験をして、私は初めて当時の自分の舌鋒鋭い非難の言葉を後悔した」
日本の新聞の特派員からの質問にはこう答えている。「10年前よりは日本のセントラルバンカーに同情的な気持ちだ」
教授たちのような「意思の強い、プライドの高い人たちに対しては、強権発動による問題解決はうまくいかないことがすぐにわかった。それぞれと向き合い、きちんと話を聞き、そしてさらに話を聞くことが大切」
「人は自分の懸念を表明する機会を与えられれば、結果に満足はしなくても納得してくれるということも学んだ」
グリーンスパンはインフレターゲッティングに懐疑的だったとバーナンキ。
「グリーンスパンの予測はコンピュータによるモデルや分析には重きを置かず、独特なボトムアップ方式によるものだった。彼はつねに、何百という小さな情報ひとつひとつに目を通していた。」
「FRBの経済モデルは、そして一般的に経済予測モデルはそうなのだが、金融不安への経済的な影響について織り込むことが下手である。それは、(幸いなことに)金融危機はまれにしか起きないので、関連データが少ないことにもよる」
1920年代のFRBの事実上のリーダー格だったNY連銀総裁ベンジャミン・ストロングは、株価高騰を抑える目的で金利を上げることに反対し、その理由をたとえ話になぞらえている。「金利を上げるのは、一人の子ども(株価)が悪さをしたからといって子ども全員に罰を与えるようなものだ」
1928年にストロングが亡くなると、後継者は彼のアプローチを無視して金利を上げた。「その結果は、1929年の株価暴落だけでなく、金融政策の過剰引締めによる大恐慌をも引き起こした。株式市場だけを対象として政策を実施したために、悲劇が起きてしまったのだ」
バーナンキ「私たちは、株式市場を一定の幅で動かしたいというのではなく、私たちの政策メッセージが理解されたかどうかを測る良い物差しとみていた」
FRBの理髪店でバーンズ、ボルカー、グリーンスパン、バーナンキと歴代の議長の髪を切り、「FRBヘアマン」の名刺を持つレニー・ギレオの店の壁には「私の通貨供給量は、あなたの髪の成長率に依存している」という言葉が掲げてある。
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