高橋是清の経済政策については『ケインズは本当に死んだのか』金森久雄編(1996)の第5章において小宮隆太郎の「ケインズと日本の経済政策―是清・湛山・亀吉の事績を通じて」に簡潔にまとめられている。小宮によると是清の政策は当時の経済状況に対するマクロ政策の処方箋として模範に近い答案と。
金解禁政策を推進した中心人物は当時大蔵大臣であった井上準之助。彼の理解していた通貨政策の理論はケインズやカッセルの新理論以前の古い考え方だった。金解禁そのものが通貨政策として大失敗であったばかりでなく、金解禁前に進められた緊縮的な財政金融政策が日本経済に大きな災厄をもたらした。
「是清は、金解禁の政策が行き詰って内閣が交代し、蔵相に就任(五度目)すると、直ちに金輸出を再禁止した(1931年12月)。その後36年に81歳の現職(七度目)の蔵相の身で、二・二六事件の凶刃に倒れるまで、”ケインズ的”な財政・金融・為替政策を展開した」
「為替政策では、金再禁止直後は大幅円安を放任し、32年末にポンドに対して旧平価から40%以上も円安になった水準でポンドにリンクした。対米ドル減価率も約40%。金やフランスなどの通貨に対しては約66%の減価。資本収支については資本逃避防止法、為替管理法を施行した」
「大不況下の1932年~35年に、多くの国では物価は大幅に下がり、自国通貨で図った輸出額が低下したが、日本では円安により円貨で測った輸出額は大いに増加した。円レートの大幅減価と輸出伸長は日本が小国であり、また第二次大戦後のIMFのような取り決めなかったので、可能であった」
「日本の交易条件は大幅に悪化したが、その不利益よりも経常収支の悪化を招くことなく国内生産が拡大したことの利益の方がはるかに大きかった」
「以上の為替政策と、日銀の保証発行限度を1.2億円から十億円に拡大したことにより、財政金融政策は”金本位制の桎梏”と「固定為替レートの制約」から解放され、積極的な不況対策の展開が可能になった」
「金融政策では低金利政策がとられ、公定歩合は1932年初の6.57%から33年7月以降の3.65%まで下がった。しかし是清は「通貨の信用」と「国家の国際的信用」に深く留意していた」
「財政政策は従来の均衡財政主義から転換し、一般会計歳出を一挙に30%以上も増やし、そのために生じる財政赤字を埋めるのに歳入の30%以上に達する巨額の長期国債を日銀引き受けにより発行した。この拡張的財政政策により、はじめは「農村匡救」、産業の振興、生活の安定を目指したのだが、軍国主義の台頭により軍拡の道を進まざるをえなかった」
「以上はまさに典型的なケインズ流の有効需要拡大の政策であり、1932年当時の日本経済の状況に対するマクロ政策の処方箋として、模範に近い”答案”といってよい。これにより日本経済は深い不況から急速に回復に向かい、生産・雇用は拡大した」
「しかしこのような生産拡大の過程は完全雇用と生産設備のフル稼働に達するまでしか続かない。それ以上に有効需要を拡大すれば純然たるインフレが発生する。是清は「国力を無視」して赤字国債を発行し財政支出を増やせないことを十分に理解しており、33年以降は年々の国債発行額を減らし、インフレの兆しが見え始めた35年には財政支出の拡大を抑制しようとした」
当時の軍部は軍事費抑制を承服せず、さらなる軍事費の増額を要求。これに対してほとんど孤軍奮闘の形で抵抗した是清は、36年の二・二六事件で暗殺されてしまった。是清は軍国主義が台頭しテロリズムが横行する困難な状況の下で身を擲って軍部の横暴に対抗した数少ない人の一人だった。
「是清亡き後は財政面から軍国主義とインフレへの道に立ちはだかる人は一人もいなくなってしまった」
是清は、ケインズの『一般理論』の刊行の年に暗殺されているので、当然ながら『一般理論』は読んでいない。是清の優れた政策は、書物やアドバイザーの助言などからヒントを得たものではなく、様々な職業に就いたあとで日銀総裁、蔵相、首相を務めた彼の長年の経験の結実だろうというのが小宮氏の意見。
2015年8月30日日曜日
『昭和恐慌と経済政策』
NHKで高橋是清のドラマをやっていたので、関連した本を読んでおく。
『昭和恐慌と経済政策』中村隆英の「Ⅳ章 危機の切迫」を読んでいるところ。
第一次大戦後の「ドイツは主としてアメリカからの資金の流入に依存して、国内における投資を進め、貿易を改善しかつ賠償を支払ってきた。ところが、世界恐慌以後、各国の海外への投資は急激に減少し、ドイツは海外からの投資を急に引き上げられたために、絶え間のない危機にさらされていたのである。オーストリアの大銀行、クレジット・アンシュタルトが支払いを停止したのは31年6月であった。大銀行の支払い停止は当然連鎖反応を呼び、ドイツは激しい金融恐慌に襲われた。ダナード銀行をはじめ、大銀行が相次いで支払いを停止するや、ドイツ政府はついに、為替を国家管理し、資本流出を禁止する強度の統制を実施するにいたった」
「ドイツに投資されていた各国の資金は、支払停止と為替管理によって今や完全にブロックされたのであったが、各国の資金が直接ドイツに投資されていたのでなく、イギリスを経由して投資されている場合が多かった。そのためにドイツからの資金引き上げの波が一転してイギリスを襲うにいたったのである」
急激な資金流出に堪えられなくなったイギリスは1931年9月21日に金本位制を停止。日本はこの年の12月に、アメリカは1933年、フランスは35年にそれぞれ金本位を停止して、その後金本位はついに復活されなかった。
「しかしながら、イギリスの金本位停止の日に、その長期的傾向を読み取り得たものは少なかった。井上(準之助)の悲劇はこの日から始まるのである」
板垣・石原の命を受けた一部の部隊が満鉄線路爆破したのを合図に満州事変がおきたのが、イギリスの金本位制停止の9月21日の3日前の1931年9月18日。
イギリスの金本位離脱にともなって、日本でドルへの需要が殺到した。実需に加えて、早晩日本も金本位を離脱することを予想し、そうなれば円の対ドルレートは下落するだろうから、そこで円に買い戻せば利益を収めることができるという思惑によるもの。イギリスが再禁止したときに日本も金輸出の再禁止をすればよかったのに、政治的理由でしなかった。
「経済的に最善と思われる政策が政治的理由から採用されないことはしばしばあって、望ましくない結果を生むことは、この時に始まったことではないが、事態の深刻さはおそらく空前といってもよかったであろう」
1931年12月に若槻内閣が総辞職。後継首相に政友会総裁の犬養毅、大蔵大臣に、引退していた高橋是清を選定。13日に犬養内閣は成立、即日金輸出の再禁止。
井上は民政党の筆頭総務として「金本位制の再建」をかかげ、選挙運動に奔走していたが、1932年2月9日、血盟団の一員に射殺された。血盟団は次いでドル買いをしたとされる三井の団琢磨を暗殺した。そして5・15事件の犬養首相暗殺に続いていく。5・15事件以降、「あらゆる政策が、軍部の意向を無視しては行なわれえない状況が出現したのである」
「高橋は、財政支出を一時的に拡大し、金融をゆるめ、対外的には資本逃避を防ぎ、為替レートを帝位に安定させるという方針を打ち出した。(略)その政策をとった後、経済は着実な回復を示した。とくに輸出の回復は目覚ましく、それにつれて国内景気も回復」、という典型的なケインジアン政策。
「経済理論的に考える限り、経済政策は外側の条件が変わればそれに応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したりするべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策はもはやそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的には望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのである」
NHKドラマで高橋是清がロンドンで戦費を調達するシーン、金融クラスタとしては大変興味深かったんだけど、一般の人にとってはどうだったんだろうか。
そこについては『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 (新潮選書) 板谷 敏彦に詳しいようなので図書館で借りてきた。
高橋是清のドラマ、さすがに二時間だと時間が足りなくて表面的に終始。
『昭和恐慌と経済政策』中村隆英の「Ⅳ章 危機の切迫」を読んでいるところ。
第一次大戦後の「ドイツは主としてアメリカからの資金の流入に依存して、国内における投資を進め、貿易を改善しかつ賠償を支払ってきた。ところが、世界恐慌以後、各国の海外への投資は急激に減少し、ドイツは海外からの投資を急に引き上げられたために、絶え間のない危機にさらされていたのである。オーストリアの大銀行、クレジット・アンシュタルトが支払いを停止したのは31年6月であった。大銀行の支払い停止は当然連鎖反応を呼び、ドイツは激しい金融恐慌に襲われた。ダナード銀行をはじめ、大銀行が相次いで支払いを停止するや、ドイツ政府はついに、為替を国家管理し、資本流出を禁止する強度の統制を実施するにいたった」
「ドイツに投資されていた各国の資金は、支払停止と為替管理によって今や完全にブロックされたのであったが、各国の資金が直接ドイツに投資されていたのでなく、イギリスを経由して投資されている場合が多かった。そのためにドイツからの資金引き上げの波が一転してイギリスを襲うにいたったのである」
急激な資金流出に堪えられなくなったイギリスは1931年9月21日に金本位制を停止。日本はこの年の12月に、アメリカは1933年、フランスは35年にそれぞれ金本位を停止して、その後金本位はついに復活されなかった。
「しかしながら、イギリスの金本位停止の日に、その長期的傾向を読み取り得たものは少なかった。井上(準之助)の悲劇はこの日から始まるのである」
板垣・石原の命を受けた一部の部隊が満鉄線路爆破したのを合図に満州事変がおきたのが、イギリスの金本位制停止の9月21日の3日前の1931年9月18日。
イギリスの金本位離脱にともなって、日本でドルへの需要が殺到した。実需に加えて、早晩日本も金本位を離脱することを予想し、そうなれば円の対ドルレートは下落するだろうから、そこで円に買い戻せば利益を収めることができるという思惑によるもの。イギリスが再禁止したときに日本も金輸出の再禁止をすればよかったのに、政治的理由でしなかった。
「経済的に最善と思われる政策が政治的理由から採用されないことはしばしばあって、望ましくない結果を生むことは、この時に始まったことではないが、事態の深刻さはおそらく空前といってもよかったであろう」
1931年12月に若槻内閣が総辞職。後継首相に政友会総裁の犬養毅、大蔵大臣に、引退していた高橋是清を選定。13日に犬養内閣は成立、即日金輸出の再禁止。
井上は民政党の筆頭総務として「金本位制の再建」をかかげ、選挙運動に奔走していたが、1932年2月9日、血盟団の一員に射殺された。血盟団は次いでドル買いをしたとされる三井の団琢磨を暗殺した。そして5・15事件の犬養首相暗殺に続いていく。5・15事件以降、「あらゆる政策が、軍部の意向を無視しては行なわれえない状況が出現したのである」
「経済理論的に考える限り、経済政策は外側の条件が変わればそれに応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したりするべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策はもはやそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的には望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのである」
NHKドラマで高橋是清がロンドンで戦費を調達するシーン、金融クラスタとしては大変興味深かったんだけど、一般の人にとってはどうだったんだろうか。
そこについては『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち』 (新潮選書) 板谷 敏彦に詳しいようなので図書館で借りてきた。
高橋是清のドラマ、さすがに二時間だと時間が足りなくて表面的に終始。
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