2016年3月26日土曜日

木田元『ハイデガーの思想』

木田元『ハイデガーの思想』によると、ハイデガーの『存在と時間』は本来書く予定だった本の「上巻」に当たるそうだ。しかもそれは本来のプログラムの半分も満たしていない。「下巻」はついに出版されなかった。

「どんな本でも、たいてい肝腎なことは後まわしにされるものである。『存在と時間』も、その梗概によれば、いわゆる本論はすべて「下巻」にまわされており、「上巻」はその本論を展開するための準備作業に終始している」

『存在と時間』の不思議な影響力は、「この本の持つ一種独特の雰囲気と、それを伝えるこれまた独自な言語表現のスタイルから発している...(略)。人々は、第一次大戦敗戦後の雰囲気が『存在と時間』上巻に凝縮されて現れているのを感じとり、それに強い衝撃を受けたのであろう」

第一次大戦敗戦の1918年から1927年までの十年間にドイツ語圏で出された一群の本に共通する性格からこの時代の独特の気分を浮かび上がらせることができる。一群の本とは、エルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』、オズワルト・シュペングラーの『西洋の没落』第一巻、カール・バルトの『ロマ書』、フランツ・ローゼンツヴァイクの『救済の星』三巻、アドルフ・ヒトラーの『わが闘争』二巻、それにハイデガー『存在と時間』上巻。

これにカール・クラウスの『人類最後の日』とルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、ジョルジ・ルカーチの『歴史と階級意識』を加えてもとよい、と。

これらの本に共通する特徴としてスタイナーが指摘するのは、一つはこれらがすべて大冊だということ。次に、すべてなんらかの意味で予言的・ユートピア的著作だということ。ある意味で黙示録的だということ。「キリスト教において「黙示録」と呼ばれるのは、現世の終末と来るべき世界についての神の秘密の教えを告知する文書のことである」「こうした特質は暴力的性格と結びつく傾向がある。「これはすべて暴力的な本なのである」と、スタイナーは主張する。しかも、それは徹底した否定を目指す暴力であり、弁証法的に肯定を生み出すようなヘーゲル的否定ではない」

ハイデガーは『存在と時間』で人間のことを〈現存在〉という妙な言葉で呼んでいる。おそらく彼には〈人〉という言葉は多義的で曖昧な言葉なのだろう。そこでこの言葉を避け、人間はあくまで〈存在の意味〉が問われる〈現場〉としてのみ問題にされるという意味で〈現存在〉という言葉を選んだようだ。

「『存在と時間』の究極の狙いは、〈存在とは何か〉という問いを問うことにある」

「ハイデガーによれば、この問いは実は、プラトン、アリストテレス以来西洋哲学がつねに問い続けてきた根本の問いなのであり、したがって、いまこの問いを問うことは、「存在への問いをあからさまに反復する」ことなのである」

〈存在する〉というのはどういう意味かを問うこと。〈在るとされるあらゆるもの〉をそのように〈在るもの〉たらしめている〈在る〉とはどういうことかを問うことである。

中世のスコラ哲学者たちがさまざまに試みた〈神の存在証明〉は、神が存在するかしないを問題にしようというものではない。「彼らにとっては神が存在するのは分かりきったことなのであって、これを論理的にどう証明してみせるかが問題なのである」

〈神はもっとも完全なる存在者である。ということは、神はすべての肯定的な規定(「神は全能である」「神は無限である」・・・)をそのうちにふくむ存在者だということである。ところで、「存在する」ということも一つの肯定的規定である。神は当然この規定をも含んでいる。したがって、神は存在する〉

この言葉のまやかしのような神の存在の〈存在論的証明〉は、11世紀にアンセルムスによって提唱され、13世紀にトマス・アクィナスによって否定され、17世紀にデカルトによって復興され、18世紀にカントによって否認され、19世紀初頭再びヘーゲルによって承認されるという興味深い歴史をもつ。

「神秘的なのは、世界が「いかに」あるかではなく、世界がある「ということ」である。」 ウィトゲンシュタイン(『論理哲学論考』)

「私がこの経験をするとき私は世界の存在に驚く、と言うことである。その場合私は、〈何かが存在するとはなんと不思議なことだろうか〉とか、〈世界が存在するとはなんと不思議なことだろう〉といった言い方をしたくなる」 ウィトゲンシュタイン

「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、〈存在者が存在する〉という驚異のなかの驚異を経験するのである。」 ハイデガー(『形而上学とは何か』)

「存在は存在者ではない」
「現存在が存在を了解するときのみ、存在はある(エス・ギプト)。」
「存在は了解のうちにある(エス・ギプト)。」
「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は〈ある(エス・ギプト)〉。」

〈ある(エス・ギプト)〉は〈存在する(ザイン)〉と言う意味ではない。ドイツ語の(エス・ギプト)は英語で言えばis givenですかね。

一般に動物は、狭い現在を生きることしかできず、したがって現に与えられている環境に閉じ込められることになる。そこには過去も未来もない。ところが人間は、記憶や予期の働きによって、過去や未来という次元を開くことができる。

「人間は、動物のように自分の生きている環境構造をそれしかないものとして受けとるのではなく、他にもありうる環境構造の可能な一つとして捉え、いわばそこから少し身を引き離すことができるようになる」

「このような高次の機能によって、現存在が現に与えられている環境から身を引き離すその事態を、ハイデガーは〈超越〉と呼んでいる。現存在は、〈生物学的環境〉から〈世界〉へと超越するのである」

「ハイデガーが人間のことを〈現存在(ダーザイン)〉という妙な言葉で呼ぶのも、人間こそ、〈存在(ザイン)〉という視点の設定が行われるその〈現場(ダー)〉だからにほかならない」

もともとフッサールは数学から哲学に転向した人なので哲学史的な素養に欠けており、そのためもあって自分の提唱した現象学を史上かつてない新たな思想だと考えていたのであるが、哲学史家ハイデガーから見れば、フッサールの現象学も西洋哲学の伝統の線上に位置し、その伝統の現代的更新にほかならない

ハイデガーは先生のフッサールが無自覚におこなった哲学的企てを意識的に引き受けなおし、現象学を西洋哲学の伝統のうちに捉えなおそうと考えていたのである。

ハイデガーの独自の哲学史観は、アリストテレスをはじめとする哲学の古典の精緻な読解作業のなかで形成されたものである。ハイデガーはもともと歴史研究、ことにアリストテレス研究から出発した。

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