2013年11月3日日曜日

藤子・F・不二雄

録画しておいたNHKのドキュメンタリーを見ました。

藤子・F・不二雄こと藤本の書斎には落語のテープから雑誌Newton、世界のミステリーまで実に1万点以上。藤本はこれらの全てに目を通していた。

「漫画っていうものを分解してみますと結局は小さな断片の寄せ集めなんでありますね。本を読んだりテレビや映画を見たり新聞を読んだり人と話したり見たり聞いたり、絶えずピッピと感性に訴えるものがあって、あれが使えそうこれが使えそうと捨てたり組み合わせ直したり...」

「そういう作業の結果、1つのアイディアというのがまとまってくるんです。なるべくおもしろい断片を数多く持ってた方が「価値」ということになるわけです」

通常数日かかるネームの作業を藤本は朝、スタジオに行く前の喫茶店などでサラリーマンにまぎれて1時間ほどで仕上げていた。

ネームを仕上げるとスタッフが待つ仕事場へ。机に座るやいなやすぐに原稿の下書きに取り掛かる。無駄口をたたかず、昼の休憩以外は休むことなく、一日一本という驚異的なペースでドラえもんを書き上げていった。

「最盛期には、SF漫画などの連載と平行して、8つの違う雑誌に違うストーリーの「ドラえもん」を書き分けていた」ってすごいとしか言いようがない。尋常ではない。

「現実に身近にある、ああしたい、こうしたいという願望と、前からの知識とか断片をこう組み合わせて「アンキパン」などの道具というのが出来てくるわけですね」

イギリスの作家ジョン・バッカンの「魔法のつえ」という作品の中で少年が魔法使いからもらったステッキを回すと自分が思いもかけないところへ飛んでいく。何十年後かにそのイメージを憶えていて、「どこでもドア」にそれを使った。

「漫画家は普通の人であれ」 藤子・F・不二雄

今気づいたけど、ドラえもんって藤子不二雄名義じゃなくて藤子・F・不二雄なんですね。あれは一人で書いたのか...

ドラえもんは全世界で一億五千万部売れたそうだ。

体が弱く内気な藤本の小学校に我孫子が転校してくる。そして若干19歳の手塚治虫が「新宝島」を発表する。「もしこの「新宝島」との出会いがなかったら僕らは、単に一時期、漫画好きの少年であったというだけで普通の生活に戻っていたと思いますね。そういう意味で僕らのバイブルのような本ですね」

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