宇沢弘文『経済と人間の旅』
第Ⅱ部「現実から遊離した新古典派 -偏向した命題を導く」
「周知のように『一般理論』は経済学の古典のなかでももっとも難解な書物の一つであり、その全体像をとらえることは容易ではない。『一般理論』は現代資本主義経済の制度的諸条件を整合的なマクロ経済の理論モデルとして定式化し、そこにおける経済循環のメカニズムを解明し、マクロ経済的な諸変量、なかんずく雇用量、国民所得水準がどのようにして決定されるかということを明らかにしようとしたものである。ケインズはそこで企業の実体、その行動様式に議論の焦点を当て、とくに投資がどのような要因によって決まってくるかという点に現代資本主義の制度的特質がもっとも顕著にあらわれていると考えた。
ケインズ的な企業概念は、もともと1904年に刊行されたソースティン・ヴェブレンの『営利企業の理論』に展開された概念を敷衍したものである。ヴェブレンの企業理論はケインズによって一般的な形で展開され、マクロ経済理論の中核に位置づけられることになった。ケインズ理論のもう一つの特徴として挙げなければならないのは、労働雇用に関する理解である。労働者が現行賃金の下で働きたいという意志をもっていたとしても、雇用者が雇用しなければ働くことができない。経済全体でみれば、総需要額が総供給額を下回るときには、働く意思をもちながら働くことのできない労働者、いわゆる非自発的失業者の存在が必然となる。
新古典派の理論では、この自明のことが否定され、各個人は自らの主観的価値基準の下で最も望ましいと考える労働供給時間を選択し、その時間だけ働くことができると仮定する。最近流行している供給サイドの経済学というのは、じつはこの仮定から出発して議論を展開している。
『一般理論』の理論的な梗概を表したのはジョン・ヒックスのIS・LM分析である。これは1937年、『一般理論』に対する書評論文で展開されたものであるが、単純かつ明快な理論モデルを使って、『一般理論』のエッセンスと思われる面を浮き彫りにしたものであった。ヒックスのIS・LM分析はその後、サミュエルソンを中心としたアメリカの経済学者たちの手によって、マクロ経済学の構築にさいしての基本的な概念として精緻化されていった。いわゆるアメリカ・ケインジアンと呼ばれる学派を形成し、戦後の世界における経済学研究で中心的な役割を果たしていった。
正確に言うと、アメリカ・ケインジアンはヒックスのIS・LM分析という理論的な枠組みを基軸として、それを計量的に把握する計量経済学的な分析を適用する。いくつかの構造方程式の体系によって特徴づけられるマクロ経済モデルについて、その構造パラメータを統計的に推計するのは、シカゴ大学のコールズ・コミッションの研究者たちにによって完成され、ローレンス・クラインによって実際にアメリカ経済の構造を推計するという作業が行われた。この計量経済モデルの作成は、その後世界の多くの国々で行われるようになったが、戦後における経済学の発展のなかでもっとも重要な意味をもつものの一つである」
この後、宇沢氏はアメリカ・ケインジアンの考え方に二つの点で重要な制約条件が置かれていたと指摘。第一の点はIS・LM分析が均衡分の枠組みのなかで定式化されていること。第二の点は、統計的計算の可能性という観点から極端に単純化された仮定を設けていたこと。
「IS・LM分析が基本的には均衡分析の枠組みの中で定式化されていて、ケインズが一般理論で分析しようとした恐慌生成の過程、労働市場だけでなくすべての財・サービス市場における需給の不一致などという動学的不均衡過程を取り扱うことができないという点に理論的枠組みの根本的な制約条件が存在する。第二の点は「計量経済モデルの構造パラメータの推計に際して、主として統計的計算の可能性という観点から、極端に単純化された仮定を設けて、統計的推計を行っているが、この仮定は往々にしてきわめてミスリーディングな結果を生み出すことになる。これらの二つの問題点は、分析対象とする経済体系が均衡状態にあるか、あるいはそれに近いような状態にあるときにはおおむね無視してよいが、均衡から乖離して、しかも市場における調整過程が必ずしも安定的でないようなときは理論的・計量的誤差を生み、望ましくない政策インプリケーションを誘発する」
アメリカ経済が60年代後半から70年代に不均衡度が高まると、アメリカ・ケインジアン、さらにケインズ経済学についての理論的整合性と現実妥協性とに対して重大な疑義が提起され、その政策的有効性に対する信頼感はとみに喪失していった。
「このような状況の下で、アメリカ・ケインジアンの考え方に真正面から批判的活動を展開していったのが、いわゆるマネタリズムの立場に立つ人々であった。マネタリズムというのは、厳密に定式化された理論枠組みをもつものではなく、貨幣量の変化が経済循環の過程に及ぼす影響を一般的な形で分析しようとする。しかし、その基本的な考え方は1930年代の大不況期にほぼ完全に葬り去られた新古典派の経済理論に準拠するものであると言ってよい。とくに経済循環について、貨幣面と実物面との二分法を前提とし、労働雇用に関する労働者の雇用決定性を仮定する。したがって非自発的失業は厳密な意味では存在せず、すべて貨幣供給政策の変動にともなって発生する過渡的なものでしかないと主張する。
マネタリズムの背後にある新古典派理論は1970年代に入って、さらにいっそう極端な形を取るようになっていった。そこで中心的な役割を果たしたのが、「合理的期待形成仮説」である。この仮説は人々がある経済行動をとるとき、将来の均衡市場価格について、その客観的確率分布を正確に予想して、現在時点における期待価格が将来の市場価格の確率的平均値に一致するように期待を形成するというものである。このような期待形成が可能となるためには個別的な経済主体がそれぞれ均衡状態における市場価格形成の構造的諸要因を正確に知っていなければならない。需要関数と供給関数についてどのような変数が要因となっているかということだけでなく具体的にそれらの形を正確に知っているということを意味する。もし仮に個別的な経済主体が、このような知識をもっていたとすれば ーこれはもちろん不可能なことであるがー それは市場制度の基本的要件である分権性を否定するものであり、そもそも市場制度の存在は必要なくなってしまう。
このような極端な前提の上に立っている「合理的期待形成仮説」は当然のことながら、理論的にも、政策的にも極端な結論を導きだすことになる。その多くは、これまでマネタリストが主張してきた政策的命題を正当化し、イデオロギー的偏向をさらに強めるという役割を演じてきた。もともと資本主義的な経済制度の下における経済循環のプロセスを分析しようという近代経済学本来の立場からは大きく逸脱した考え方である。
しかし「合理的期待形成仮説」は、1970年代を通じてアメリカの主要な大学における経済学研究のあり方に決定的な影響を及ぼすようになり、この仮説にふれないで博士論文を作成するというのはほとんど不可能に近いというような状況になってきているという。「合理的期待形成仮説」も「供給サイドの経済学」もともに、現実の経済におけるさまざまな制度的、時間的制約条件を無視して、新古典派経済理論を極端に抽象して、論理的演算と統計的推計を行って、ある特定の政治的イデオロギーにとって望ましいような政策的命題を導き出す。そして、ケインズ経済学に代わって、新しい経済理論を構築しつつあるような印象を一般に与えている。しかし、どちらも理論的整合性と現実的妥当性という点から、ケインズ経済学に代替し得るものではなく、新しい経済学のパラダイムが形成されるまでの鬼火現象に過ぎない」
宇沢氏の「現実から遊離した新古典派」という文章、1981年6月の日経経済教室なのね。
"The Theory of Business Enterprise" Veblen(1904)
ヴェブレン『営利企業の理論』
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿