2016年2月7日日曜日

日経、日曜日に考える 『マイナス金利、経済への影響は』

日経、日曜日に考える。マイナス金利の経済への影響について、従来この政策を提唱してきた賛成派の岩田一政氏と、反対派の池尾和人氏の意見を併記している。
岩田氏によるとマイナス金利が景気を刺激するメカニズムとして2つ。1つは金利低下で企業投資や個人の住宅購入など経済活動が刺激される。もう一つはリスク性の資産の購入が増えて、市場環境を好転させるルート。
岩田一政氏がマイナス金利を推す理由も、今の量的・質的緩和だと2017年6月に長期国債の購入が限界に達するからでしかないようですね。岩田氏のいう効果って、もうすでにほとんど出尽くしている気がする。
個人的には、池尾和人氏とまったく同意見ですね。
池尾 「黒田総裁が言うように、金融政策に『できること』はまだあるだろう。ただそれは『有効な手段』がまだあるということを意味しない。『有効な手段』とは、効果が副作用をそれなりに上回り、経済を好転させるような政策措置だ。マイナス金利政策がそれに該当するのかには疑問がある。
今回の決定は、緩和策をさらに進めても有効性はあまりないという金融政策の限界を示したというのが実態だろう。量的・質的緩和をさらに『進化』させるのではなく、『退却』のシナリオを考えた方がいい
過度の円高防止はともかく、さらなる円安促進が今の日本経済にとってどの程度プラスなのかには議論の余地がある。原油価格などの下落のメリットを素直に享受した方がよいのではないか。
日銀当座預金の金利がマイナスになれば銀行の収益に何らかの悪影響が及ぶはずだ。それによって個人や企業に円滑にお金を供給するという銀行の金融仲介機能が損なわれてしまう懸念がある。」
私もそこを強く懸念してます。
「貸し出しが伸びない本当の理由は、日本経済に成長期待が持てず、信用度が高い企業や個人から十分な資金需要が生まれない点だ。当座預金の金利がプラス0.1%からマイナス0.1%に低下したからといって、銀行融資が大きく増えるとは考えにくい。
一部の信用力の高い企業の資金調達は確かに楽になるかもしれない。しかし、資本市場での調達が難しい中小企業に対しては、銀行の金融仲介機能低下がジワジワと負の影響を及ぼす懸念がある。総じてみれば、こちらの方が重みを持つのではないかと危惧している。その点は看過できない。
問題は、金融政策に追加的な工夫をしても、副作用を上回るような効果が新たに生まれる余地はあまりない点だ。大量の国債購入を進めた量的・質的緩和政策はそのことを示したし、日銀が今回導入した『マイナス金利付き量的・質的緩和政策』も同様の結果にしかならないだろう。
2%物価目標を2年程度で実現するという量的・質的緩和は短期決戦型の政策だった。その意図が実現しなかった以上、持久戦型の枠組みへの転換を考えるべきだ。そうしないと、経済に対する副作用ばかりが大きくなりかねない。」

失敗したプロジェクトを、悪影響を出さないまま早めに終わらせるのはなかなか難しい。ましてや大胆な金融緩和は現政権の看板になってしまっているので、看板を下ろすのは不可能だろうし方向転換も難しそう。
今回の金融政策決定会合で「できること」のプラス面とマイナス面を金融政策決定会合で真剣に議論した結果採用したのかどうか疑わしいですね。最初から票を固めておいての多数決なので、その結果があるべき政策なのかどうか何とも言えない。
マイナス金利導入を発表したのに、円安になるどころか円高になっているのは、黒田総裁周辺の人にとっては相当な誤算なんじゃないでしょうか。まあ、実際にマイナス金利が始まってからの動きに望みを託しているんでしょうが。


2016年1月16日土曜日

『ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相 Stress Test』


図書館で『ガイトナー回顧録 金融危機の真相 Stress Test』を借りてきたので、成人の日の三連休で読んだ。エピソードは豊富だけど考察や記述が浅い気もする。しかし、金融危機や金融規制に興味のある人にはポールソン、バーナンキの回顧録とともに必読だと思う。

前半は、IMFでのアジア危機からNY連銀理事としてのリーマンショックまででなかなか面白い。財務長官になって以降の後半は危機が欧州に移り、米国での議会とのやり取りや細かい規制の話になってやや退屈。

ガイトナーが財務長官になって初めてオバマ大統領に挨拶した時、私たちは今も「金融の爆弾」を5つ抱えていて、爆発しないように処理しないといけないと報告。その5つはファニーメイ、フレディマック、AIG、シティグループ、バンク・オブ・アメリカ。ガイトナーの補佐官はシティグループとバンク・オブ・アメリカの二行を金融界の宇宙要塞”デス・スター”と呼んでいた。

「ルービンはかつてゴールドマン・サックスの共同会長だったが、謙虚でユーモアがあり、ラリーのように棘はないが、要求が厳しかった。優良なプロセスを信奉していた。すべての補佐官の意見を、相手がヒエラルキーのどこにいようが、たとえ反対意見でも求めた-いや、反対意見こそ聞きたがった。
 落ち着いて、感情を出さず、滑稽なくらい細心で、あらゆる角度から問題を分析した。罫線入りの黄色い用箋にリスクや可能性を走り書きし、情報を集め、どうしても決断を下さなければならなくなるまで、”選択の余地を温存した”。成り行きで決断を下してはいけない、そのとき手に入る情報からして合理的なときだけ決断するようにと、口を酸っぱくして私たちを諭した。ルービンの決断は、おおむねそうだった」

ガイトナーは親の仕事がら、子供のころに世界の様々なところで生活している。
「タイにいたことがあるからといって、そこの危機をきちんと洞察できるわけではなかった。感情移入はできるかもしれないが、タイを救うのに役立つような、それ以上の知識はなかった」

「ルービン、サマーズ、グリーンスパンをこよなく尊敬し、彼らが市場と金融イノベーションをおおむね是認しているのに同調した。しかし、三人をゆるぎない自由市場イデオローグだと通俗的に大づかみに戯画化するのは、フェアではない」

「グリーンスパンは、市場は理性的で効率的だというのを神意のごとく信じていた。また、政府の監督と規制が市場を安全にするという考えには心底疑いを抱いていた。それでも、新興市場の危機では私たちの金融救済を力強く支持した」

「三人のうち、市場で暮らしをたてていた唯一の人間だったルービンは、市場が英知と理性をそなえているということを、あまり信じていなかった。過大なレバレッジにたえず懸念を示してはいたが、政府にそれをどうこうする力はないと考えていた」

「ラリー(ポールソン)の世界観はふたりの中間のどこかだったが、当時はグリーンスパンのほうに近かっただろう。私には三人のような力強い確信はなかったが、性格的にルービンの考え方に近かった」

「商業銀行数千行の監督責任が、FRB、連邦預金保険公社(FDIC)、通貨監督庁(OCC)に分割され、州の銀行監督機関が50の異なるルールに基づいて指導していた。貯蓄金融機関監督局(OTS)は、「貯蓄金融機関」と呼ばれる、ローン市場専門の銀行を指導する」

「貯金を集める子会社は、自己資本の条件を満たしていなければならず、FRBの貸出窓口で融資を申し込めるが、もっと大きなリスクを抱えた系列会社や親会社は、通常、公的機関の監督を受けずに業務を行う」

「FRBはシティグループとJPモルガン・チェースの「持ち株会社」を監督する。持ち株会社は数百ある銀行やノンバンクの子会社を傘下に収める母体だが、FRBはそこの商業銀行や投資銀行は担当しない」

「FRBは金融機関全体を監視しなければならないが、法律によって、主要監督機関に従わなければならない。商業銀行の場合はOCC、投資銀行の場合はSECがそれにあたる。FRBは外国銀行のアメリカ系列会社の監督を、州の監督機関や、その銀行の本店がある世界中の監督機関と共同で行う」

シャドーバンキングの勃興。1980年代から07年にかけての金融セクター・クレジットのすさまじい増加は、ほとんど在来型の銀行システムの外で起きていた。銀行よりも制約が少なく、政府のセイフティネットを利用できない金融機関にリスクが移動



「音楽が流れている限り、私たちは立ち上がってダンスするしかない」
シティグループのチャールズ・プリンスCEO

アメリカの家計の負債のGDP比


『ガイトナー回顧録』の139ページ、「一般に金利を下げること(量的緩和政策)」となっているけど、誤訳かなあ。原著はどう書いてあるんだろう。金利を下げることは「量的」緩和政策ではないです。

「ベンは控え目な人物で、病的な興奮や誇張にとらわれることはない-私は「中央銀行界の仏陀」と呼んでいた-だが、1930年代の銀行家の二の舞にはならないと決意していた」

カントリーワイドは回転資金の大半をコマーシャルペーパーの発行でまかなっていた。またトライパーティ・レポという複雑な市場でも資金を調達していた。

「私は自分をタカ派だとかハト派だとかいうように考えたことはない。つねに実利を重んじ、どんな形でもイデオロギーは信じない。それにFRBの責務を二つとも真剣に受け止めている。しかし、クレジット不足のときにモラル・ハザードやインフレを持ち出すタカ派の妄執は、異様すぎるし腹立たしかった」

メリルリンチの損失の大部分はCDOだった。シティもメリルと同じようにCDOのスーパーシニア債を大量に抱えていた。このときシティの取締役にはあのルービンがいた。ルービンには経営責任も権限もなかったらしいが。

『ガイトナー回顧録』の180ページ、「TAFは確信的だったし」、だと意味が分からない。「革新的」の誤植か?

ベアー・スターンズもリーマン・ブラザーズも投資銀行なので直接の監督責任はSECであって、FRBではない。ただ金融システムは絡み合っているので結局金融システム全体への影響は避けられない。

「(ベアーの件を)私はリスク管理に失敗したよくある話だと見ている。ベアー・スターンズは短期の借入を使い過ぎていた」。「ベアーの一件のほんとうの教訓は、極度のレバレッジと短期借入の世界では、信用は一瞬にして消え、それとともに流動性も消えるということだ」

(リーマン破綻について)「私たちは一線を引いたのではなかった。私たちは恐れを知らないのではなく、力がなかったのだ。壊滅的な破綻を防ごうとして失敗したのだ。それがいまだに、あまり理解されていない」

投資銀行のゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーの破綻を回避するためにGSとシティ、MSとJPモルガンを合わせようとするが、それぞれが難色を示したとw。結局、MSは三菱東京UFJから90億ドル、GSはバフェットから50億ドル調達。

「「本当に必要なのは、負債を保証する権限ですよ」私はそう言った。」287p

米財務省に初代財務長官アレグザンダー・ハミルトンの像がある。ハミルトンは、アメリカの初代「ミスター救済」だった。像にはこんな言葉が刻まれている。「ハミルトンが公的信用の死体に触れると、それが蘇った」

「コロンブス記念日は銀行が休みだったので、三菱東京UFJ銀行の幹部は月曜日の朝にみずから90億ドルの小切手をモルガン・スタンレーに持参し、ディールを締結して、リーマン式の崩壊を防いだ」

「私はブッシュ減税、イラク戦争、社会問題についての保守的な見解には賛成できなかったが、危機の最中の行動には尊敬の念を抱いていた。イデオローグ色の強い共和党員としては、なみたいていのことではなかったはずだ」

「ブッシュが揺るがず、沈着冷静で、ハンクや私たちを強く支持したことは、大きな功績として認められるべきだ-マケイン上院議員やその他おおぜいの共和党議員とはまったく違う」

「危機に対するオバマ上院議員の平静で責任感のある取り組み方にも感心した。マケイン上院議員の躍起になって迎合する態度とは、正反対だ。オバマ上院議員はハンクとたえず連絡を保っていた。ハンクはオバマを絶賛していた」

ガイトナーはブッシュ政権下、つまりリーマンショック前後はNY FEDの総裁。オバマ政権で財務長官。

「2008年初頭アメリカの大手金融機関上位25行のうち13行が、破綻するか(リーマン、WaMu)、政府の救済を受けて破綻を避けたか(ファニーメイ、フレディマック、AIG、シティ、バンカメ)、破綻を逃れるために救済合併されたか(カントリーワイド、ベアー、メリルリンチ、ワコビア)、」

「あるいは破綻を逃れるために事業構造を変えた(モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス)。株式市場は2007年の最高値から40%以上下落した。私たちは前例のない方策を途方もない規模で行い、銀行システムの中核で起きた取り付けを減速させるのに成功した」

ターム物資産担保証券貸出ファシリティ(TALF)が消費者金融市場を復活させた


「ルービンはかつて、《ミート・ザ・プレス》での1分あたり約60分の予備演習をやった」

「ラリーも含めた専門家たちは、(世界最大のヘッジファンド)ブリッジウォーターの《デイリー・オブザベーションズ》をもっとも信用できる民間セクターの経済分析資料とみなしていた-銀行についての手厳しい分析のひとつでもある」


「今後の改革で最優先すべきなのは、金融機関に自己資本をもっと増やし、レバレッジをもっと減らして、もっとしっかりした流動性を維持するように求める、より堅実なルールを定めることだと、私はずっと考えていた」

各国の銀行の資産のGDP比。アメリカは相対的に小さい。


2008年1Qを100としたときの各国GDP


「ラリー・サマーズは、立場が苦しければ苦しいほどスリルをおぼえるという変わった人物で、私たちを可能性のぎりぎり限界まで押しやった。もっともやりづらい状況であっても、私はラリーの助言を高く買い、頼りにしていた」

ガイトナーが『回顧録』を書く際に比較した重要な書物として『ポールソン回顧録』、デービッド・ウェッセルの『バーナンキは正しかったか?』、アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』を挙げている

バーナンキもガイトナーも回顧録はエピソードが豊富なのだが、豊富すぎて、銀行破綻の本質的な部分はむしろダフィーの薄い本の方が分かりやすいかもしれないと思った。

巨大銀行はなぜ破綻したのか ―プロセスとその対策 ダレル・ダフィー

ダフィーの翻訳は薄いわりに定価が高いのが難点。英文はネットで探せば見つかると思う。

"How Big Banks Fail and What to do About It" Darrell Duffie(2010)(pdf)
『巨大銀行はなぜ破綻したのか』の英文ドラフト

「経済学において、銀行の安定性についての標準的な分析」
"Bank Runs, Deposit Insurance, and Liquidity" Diamond and Dybvig(1983)(pdf)

2016年1月9日土曜日

世銀2030年試算によると日本はTPPの恩恵が大きい


1/8の日経、「TPP、日本に恩恵大きく」。14年のGDPと輸出額を基準に30年時点の押し上げ効果を試算するとGDPは2.7%、輸出は23.7%で、12カ国中6位と2位。

元ネタは世銀の"Global Economic Prospects"ではないかと思います。
PDFで22MBあります。

推計は19セクター、29地域のdynamic computable general equilibrium(CGE)モデルを使用。

モデルはこれっぽい。"Armington Meets Melitz: Introducing Firm Heterogeneity in Global
CGE Model of Trade" Zhai(2006)

2016年1月4日月曜日

バーナンキの回顧録「危機と決断」(上)

バーナンキの回顧録「危機と決断」は、バーナンキとFRBがどういう経済分析のもとでどのように意思決定をしてきたかが率直かつ明晰に語られていて、金融政策やマクロ経済に興味のある人には是非ともお勧めしたい。この明晰さは彼の経済学者としてのバックグラウンドから来るもので、前任者と対照的。

バーナンキはハーバード大学でデール・ジョンゲルソン教授に計量経済学と統計分析を学んだ。彼のもとで、政府のエネルギー政策が経済全体におよぼす影響についてのリサーチを行い、それは彼の学位論文の基礎になった。最優秀で卒業すると大学院は経済学の博士課程で最高とされていたMITを選んだ。

理数系のMITに世界最高峰の経済学課程が置かれたのは、サミュエルソンがハーバードから移ってきたことがキッカケだった。サミュエルソンの数学的なアプローチは保守的なハーバードでは受け入れられず、一部の根強い反ユダヤ主義もあった。ロバート・ソローも後を追うようにやってきた。

「多くの革新的な方法論が用いられたこともあり、新しい古典派は大きな反響を呼んだ。私(バーナンキ)の大学院時代、最も興味深い研究の多くは新しい古典派の影響を受けていた。しかし、多くの経済学者は、ケインズ理論にも欠点があることを認めつつも、新しい古典派もしっくりこないと感じていた。とくに、金融政策は雇用や生産性に短期間の効果しかもたらさないという点が引っかかるのだ。それは、1980年代はじめにポール・ボルカー議長率いるFRBが、経済を沈静化させインフレ率を下げるため金利を急激に引き上げたことで、いっそう顕著になった。ボルカーの政策はインフレを克服はしたが、深刻で継続的な景気後退をもたらした。これは、そのようなことは起きないと唱えていた新しい古典派の説に反するものだった。新しい古典派の洞察力と技術的進歩を現代的ケインズ主義の中に組み込もうとした学者たちもいた。MITでは、北ローデシア出身のスタンレー・フィッシャーもそのひとりだった。

「新しい古典派とケインズ思想を融合させようとした彼らの仕事は、いわゆるニューケインジアン理論として結実し、今日の主流派経済学者たちの思考のほとんどはこれに基づいている」

「ニューケインジアンは新しいモデルや手法を使い、賃金や物価の硬直性は市場の需給バランスを長期間悪化させるという説を復活させた。それは、景気後退は資源の無駄であり、経済を完全雇用に近い状態で維持するためには財政・金融政策の役割が必要だというケインズ理論の原点に立ち返ったものだった」

バーナンキは「研究を重ねるにつれ、新しい古典派アプローチの要素も含めさまざまな考え方を融合させたニューケインジアン理論が、実際の政策立案にはもっとも適していると確信するようになった」

バーナンキは大学院1年目の終わりにスタン・フィッシャーにマクロ経済学と金融政策を専門に研究したいと相した。スタンが貸してくれた何冊かの本の中にフリードマン=シュウォーツの『米国金融史 1867-1960』があった。バーナンキはそれに強く引き付けられた。

「FRBによる三回にわたるマネーサプライ縮小(1929年の株価暴落の前に一回、大恐慌の初期に二回)が大恐慌をあれほどまでに悪化させたという記述にはとくに引きつけられた。」

「フリードマンとシュウォーツの本を読んで、これこそ自分がやりたいことだと私は悟った。そして自分の全研究生活を通じて私はマクロ経済と経済政策の問題に集中することになった」

「私たち(バーナンキとガートラー、およびギルクリスト)が最も主張したかったのは、経済の安定のためには健全な金融システムの存在が非常に重要ということだった」

フランクリン・ルーズベルトの「大きな功績は、当時の常識を捨てて金本位制を廃止したことだろう。政府が保有する金の量によってマネーサプライが左右されることがなくなると、デフレは即座に終息した」

日銀は行動を起こすことを回避しようとしていると批判してきたバーナンキだが、自分がFRB議長になると今度は自分が政治家やマスコミや経済学者から「辛辣でやる気をそがれるような数々の批判を浴びる経験をして、私は初めて当時の自分の舌鋒鋭い非難の言葉を後悔した」

日本の新聞の特派員からの質問にはこう答えている。「10年前よりは日本のセントラルバンカーに同情的な気持ちだ」

教授たちのような「意思の強い、プライドの高い人たちに対しては、強権発動による問題解決はうまくいかないことがすぐにわかった。それぞれと向き合い、きちんと話を聞き、そしてさらに話を聞くことが大切」

「人は自分の懸念を表明する機会を与えられれば、結果に満足はしなくても納得してくれるということも学んだ」

グリーンスパンはインフレターゲッティングに懐疑的だったとバーナンキ。

「グリーンスパンの予測はコンピュータによるモデルや分析には重きを置かず、独特なボトムアップ方式によるものだった。彼はつねに、何百という小さな情報ひとつひとつに目を通していた。」

「FRBの経済モデルは、そして一般的に経済予測モデルはそうなのだが、金融不安への経済的な影響について織り込むことが下手である。それは、(幸いなことに)金融危機はまれにしか起きないので、関連データが少ないことにもよる」

1920年代のFRBの事実上のリーダー格だったNY連銀総裁ベンジャミン・ストロングは、株価高騰を抑える目的で金利を上げることに反対し、その理由をたとえ話になぞらえている。「金利を上げるのは、一人の子ども(株価)が悪さをしたからといって子ども全員に罰を与えるようなものだ」

1928年にストロングが亡くなると、後継者は彼のアプローチを無視して金利を上げた。「その結果は、1929年の株価暴落だけでなく、金融政策の過剰引締めによる大恐慌をも引き起こした。株式市場だけを対象として政策を実施したために、悲劇が起きてしまったのだ」

バーナンキ「私たちは、株式市場を一定の幅で動かしたいというのではなく、私たちの政策メッセージが理解されたかどうかを測る良い物差しとみていた」

FRBの理髪店でバーンズ、ボルカー、グリーンスパン、バーナンキと歴代の議長の髪を切り、「FRBヘアマン」の名刺を持つレニー・ギレオの店の壁には「私の通貨供給量は、あなたの髪の成長率に依存している」という言葉が掲げてある。

2015年12月5日土曜日

『90分でわかるニーチェ』

ニーチェを読めば、精神が高揚する。そして、実をいえば、これこそ哲学で肝要なものだ(だからこそ、ニーチェは危険なのだ)。」

「キリスト教の支配した中世のはじめ、哲学的思考は衰退し、哲学は眠りに落ちる。この眠りのなかから、哲学的夢想ともいうべきスコラ哲学が生み出される。教会の教えとアリストテレス哲学をミックスした思想の誕生だ。この眠りを覚ましたのは、17世紀のデカルトである。「我思う。ゆえに、我あり」と高らかに宣言し、哲学を激しく揺さぶった。こうして啓蒙主義の時代が到来する。「知識は信仰ではなく、理性にもとづく」という考えが世を席捲する」
デカルトの一撃はイギリスをも貫く。しかし目覚めたイギリス人はデカルトの理性主義に反旗を翻し、「知識は理性ではなく、経験にもとづく」と主張する。いわゆるイギリス経験論の登場だ。イギリス経験論は経験にもとづかないものを破壊しようとする。デカルト的な理性主義だけでなく、理性的にみえるものをことごとく打ち砕こうとする。哲学的思考すら、微小な感覚的集合にすぎないという。哲学的思考は解体され、哲学は再度まどろみに落ちる。
「18世紀中葉、カントが「独断のまどろみ」から覚め、壮大な哲学的システムを築きあげようとする。ちゅせいに哲学を眠りに落としたものよりも、巨大な体系であった。哲学はどのような方向に進めばよいのか、分からなくなる。この状況に対して、ヘーゲルは途方もなく壮大な体系をつくりあげることで、敢然と立ち向かう。ショーペンハウアーは別の道に進み、カント的思想に不気味な東洋思想の息吹を加える。このショーペンハウアーが、若きニーチェを眠りから揺り起こした」
目覚めたニーチェは一陣の冷たい突風と化し、声高に新たな哲学を説きはじめる。その後長いあいだ、人々が眠りにつくことはなかった。身を引き裂くようなニーチェ哲学のために・・・
「The World as Will and Idea (Vol. 1 of 3) by Arthur Schopenhauer
1819年に公刊されたドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの代表的著書『意志と表象としての世界』」
ワーグナーが生まれたのはニーチェの父と同じ年。
ニーチェは博士号も取得していないのに若干24歳でバーゼル大学文献学教授に就任する。すぐに文献学の講義と並んで哲学の講義もおこなう。「彼の意図は、哲学、美学、古典学を結びつけることにあった。これらを結びつければ、西洋文明の欠点を分析するための手段が得られると考えていた」
ニーチェが一生涯尊敬したのは、バーゼル大学のスタッフで文化史の大家、カーコプ・ブルクハルト一人であったに違いない。
ニーチェは週末になると、ルツェルン湖畔にそびえるワーグナーの壮麗な邸宅へ通うようになる。ワーグナーの生活は、途方もないものだった。生活自体がオペラであった。つねに音楽を奏で、感情を豊かに表現し、政治を語る。ワーグナーは自分のファンタジーを生き抜いていた。あるいはそう信じていた。
1889年1月、トリノの通りを歩いているときニーチェは突然、鞭をあてられた辻馬車の馬の首にしがみつき、涙をながしながらくずれ落ちた。発狂したのだ。狂気に陥った理由としては、過労、孤独、苦痛が挙げられるが根本的な理由は梅毒である。
病院にしばらく滞在した後、母親のもとに送られて母親がニーチェの面倒を見た。母親の死後は妹のエリザベートが継いだ。エリザベートの夫フェルスターは教師の仕事がうまくいかず反ユダヤ主義に傾く。フェルスターはのちに、パラグアイに「ヌエバ・ヘルマニア(新ドイツ)」というアーリア人植民地を打ちたてる。ザクセン地方の貧しい農民を使ってつくりあげたものだ。フェルスターは農民たちを搾取したあげく、自殺をとげる。ドイツに帰り、ニーチェの世話をすることになったエリザベートは、ニーチェを偉大な人物に仕立てる決心をする。文化的なイメージのあったワイマールにニーチェ史料館を建設しようとする。またエリザベートはニーチェの未刊行のノートを『権力への意志』という表題で公刊する。その際彼女は勝手な挿入を加える。反ユダヤ主義的なコメント、そして彼女自身を褒めたたえるコメントを混ぜてしまう。のちにニーチェ学者カウフマンは彼女の挿入した部分を取り去った本来の姿で出版する。
「快楽はいつ得られるのか?
権力をもっていることを実感したとき。
幸福はいつ得られるのか?
権力と勝利の意識が心を覆うとき。
進歩はいつ得られるのか?
この種の心情がつよまり、強大な意思をもつとき。
その他のすべてのことは?
危険な誤解」

2015年11月29日日曜日

『数学の大統一に挑む』、NHK 『数学ミステリー白熱教室』


エドワード・フレンケル『数学の大統一に挑む』は本屋で見て面白そうと思っていたら、NHK『数学ミステリー白熱教室』としてフランケルの授業が放送されることになった。そこで図書館で借りてきてさらっと読む。これは英語だと難しいので翻訳を買いたい。ということで、今回は本とTVの両方のメモ。

『数学の大統一に挑む』は、地元の図書館だと数学の棚ではなくで伝記の棚にあったんだけど、たしかに自伝的要素もある。

「私は「クォーク」という言葉が気に入った。とくに、この名前がつけられた経緯が面白かった。クォークを考えついた物理学者のマレー・ゲルマンは、ジェームズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』という作品から、この名前を取ったというのだ」

たしかにジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』はおいそれとは読みこなせない難物です。マレー・ゲルマンは『フィネガンズ・ウェイク』を本当に読んだのだろうか?

1993年プリンストンのアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明。ワイルズの証明は、一見したところでは、もとの問題とは関係のなさそうな志村-谷山-ヴェイユ予想と呼ばれる問題に取り組んだもの。

その数年前に、UCバークレーのケン・リベットが、志村-谷山-ヴェイユ予想が正しければ、フェルマーの最終定理が成り立つことを証明していた。そのおかげで、志村-谷山-ヴェイユ予想を証明することが、フェルマーの最終定理を証明することと同じになった。

フェルマーは古い本の余白にこの命題を書き込んでおり、この命題に対する簡単な証明も見出したが、「余白が狭すぎるのでここに書くことはできない」と記していた。

フェルマーが命題を証明したとは考えられない。「その命題を証明するためには、いくつもの数学分野が新しく創出される必要があったからだ。そしてそれらの発展が起こるためには、何世代もの数学者による多大な努力が必要だったのである」

"Interview with Robert Langlands for the Mathematics Newsletter."
数学の大統一に挑むラングランズ・プログラムのRobert Langlandsインテビュー(pdf)

ラングランズは英語のほかに、フランス語、ドイツ語、ロシア語、トルコ語に通じているそうだ。フレンケルと共同研究するときはしばしばロシア語でやりとりをしている。

「今日、ガロアが発見した対称群は、彼の名を冠してガロア群とよばれており、エジプトのプラミッドやバビロンの空中庭園と同じく、われわれの生きるこの世界の驚異と呼ぶべきものである」

「ガロアは、幾何学であれば直感的に理解できる対称変換という考え方を、数論の最前線に当てはめた。しかもそれだけでなく、対称変換には驚くべき力があることを示したのだ」



「二次方程式の解の公式は、すでに九世紀には、アッバース朝の数学者アル・フワーリズミーによって知られていた(代数algebraという言葉は、アル・フワーリズミーの著書のタイトルに含まれていた、al-jabrという言葉に由来する)」




三次と四次方程式の解の公式は十六世紀の前半に発見されたが、五次方程式の解の公式は三百年にわたる数学者の努力にもかかわらず成果がでなかった。しかしガロアは、それまでの数学者は、問いの立て方を間違っていたことに気がついた

ガロアは「この方程式の解を有理数に添加することにより得られる数体の、対称群に焦点を合わせるべきだと主張したのだ。その群を、今日われわれはガロア群と呼んでいる。」

1967年、ラングランズはガロア群の理論と、調和解析と呼ばれる数学の分野とをつなぐ革命的な洞察を得た。情報に秩序を与えることは、数学の重要な役割のひとつである。ラングランズの言葉によれば、それは「混沌として見えるものから、秩序を作り出す」ことだ。

「ラングランズの着想が強力だと言うのは、混沌として見える数論のデータに秩序を与え、対称性と調和に満ちた規則的なパターンにするために役立つからなのである」

1993年にワイルズが、志村-谷山-ヴェイユ予想を証明したと発表したが、それから数か月後、彼の証明には一か所ギャップが含まれていることが分かった。しかし、それから一年後ワイルズはリチャード・テイラーの協力を得て、そのギャップを埋めることができた。二人は力を合わせて証明を完成させた

志村-谷山-ヴェイユ予想は、任意の三次方程式について(ある種の穏やかな条件に従うものとして)、素数を法とする解の個数は、あるモジュラー形式の係数であると述べている。さらに、その三次方程式と(ある種の)モジュラー形式とのあいだに、一対一対応が成り立つというのである。
アイヒラーの得た結果は「三次方程式の中には、pを法とする解の個数がモジュラー形式の係数になっているものがある」というものだった。しかし、「全て」の三次方程式についてそれが言えるというのは、当時としては突拍子もないアイディアだった。それをやってのけたのが谷山豊だった。

谷山は1955年に東京と日光で開かれた代数的数論についての国際シンポジウムで提起した。なぜ谷山はこんな馬鹿げたアイディアを信じるようになったのか、こんなことを人前で発言する勇気を持てたのか?それは谷山が1958年に31歳で自殺したため、永遠の謎となった。

悲劇的なことに、谷山の婚約者も次の書置きを残して自殺した。「わたしたちは何があってもけっして離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、わたしもいっしょに逝かなければなりません」

谷山の予想は、友人であり研究仲間でもあった志村五郎の手でより厳密なものにされた。志村はその生涯の大半をプリンストンで過ごし、現在は名誉教授となっている。

志村によると谷山は「けっして杜撰というわけではなかったが、たくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。私にはそれがうらやましく、真似しようとしてみたが無駄だった。そしてわかったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだ」

ヴェイユのロゼッタストーン

「数論」、「有限体上の曲線」、「リーマン面」

ガロアが二十歳のとき決闘で死ぬ前日に書いた数学の原稿。「もう時間がない」とも書かれている。ガロアが二十歳で死んだのはもったいない。
二次方程式の解の公式を最初に記したのはアル=フワーリズミ。アル=フワーリズミの本『アル=ジャブルとアル=ムカーブラの書』。アル=ジャブルというアラビア語は「入れ替え」や「完成」という言葉と関係がある。英語の代数(algebra)の語源となった。
アル=フワーリズミの名前が長い間アルゴリズミと間違って発音されて、その後アルゴリズムという言葉ができたとフレンケル。へえ、そうだったんだ。

三次方程式の解の公式が初めて掲載された書籍、カルダーノの『アルス・マグナ 代数の根本』。

実際に公式を導いたのはタルタリアで、カルダーノは公表しない約束でタルタリアに教えてもらったのに、本に書いて自分の手柄にしてしまった。

現在、カルダーノの公式と呼ばれているものの正式名はデル・フェッロの公式、またはデル・フェッロ/タルタリアの公式。デル・フェッロも独自に導出。タルタリアは残りの人生をカルダーノの業績ではなく自分の業績だと説得して回ることになる。

カルダーノの弟子、ルドヴィコ・フェラーリは4次方程式の解の公式を発見した。
タルタリアはカルダーノに騙されたと激怒していた。タルタリアはカルダーノと計算の勝負をしようとしたが、なぜかカルダーノの弟子のフェラーリと勝負することになった。結果はフェラーリの圧勝で、タルタリアは仕事を失い破滅した。

カルダーノって本当に悪い奴だなあ。タルタリア可哀想。
ガロアのひらめき、「方程式の解の公式を累乗根で書けるかどうかは、対称性の群の構造を調べれば分かる」
4次までは可解 solvble、5次以上は可解でなくなる。可解である群とは、「可換」か「非可換」かということに関係している。可換 commutativeは、順番を入れ替えても結果は同じ。非可換は順番を入れ替えると結果が変わる。
「リー代数」、「リー群」の名前は発明者であるノルウェーの数学者ソフス・リーに因んでいる。二谷友里恵ではない。

簡単に言うと、リー群は、その元が多様体上の点になっているような群である。二谷友里恵の群れではない。したがって、リー群という概念は、群と多様体という、二つの異なる数学的概念の結婚から生まれたこどもなのだ。二谷英明と白川由美の子供ではない。
自然界に現れる多くの対称変換は、リー群によって記述することができる。リー群の研究が非常に重要なのはそのためだ。

数学的概念の系統樹


『数学の大統一に挑む』の11章、フレンケルに着想を与えた論文は、日本の数学者、脇本実が書いたものだった。

ワイルズとテイラーが1995年に「志村・谷山・ヴェイユ予想」を証明したことでフェルマーの最終定理が証明された。志村・谷山・ヴェイユ予想はラングランズ・プログラムの特殊なケースとなっている。

複雑な数論の問題をたった一つの調和解析の数式で解くことができるのは魔法のようだ。


モジュラー形式は単位円と呼ばれる領域で定義された関数で非常に美しい対称性を持つ。
志村・谷山・ヴェイユ予想「あらゆる三次方程式の解を数える数論の問題に対し、その答えを導く調和解析のモジュラー形式が存在する」

「どうしたらこんな思い切った洞察で革命的な発見ができたのか私はずっと不思議に思っていた」とフレンケル教授
数学の研究こそひらめきや直感が不可欠で、それはコンピュータでは代替できない。「このような発見をするとき、普通の思考とは違う何か別の力が働くんだ」
谷山はこの予想を発表した後、自殺する。遺書には「ただ気分的に言えるのは将来に対する自信を失ってしまった。私の行為がある種の裏切りであることは否定できませんが、最後のわがままと捉えてください。私がこれまでの人生で行ってきたように」と
谷山の婚約者も後を追い自ら命を絶つ。

志村が谷山に寄せた言葉。「彼が生きていたときよりも今の方がずっと強く彼の高潔な寛大さを感じる。それなのに彼が切に支えを必要としていたとき誰も彼の支えとなれなかった。このことを思うと私は深い悲しみに打ちのめされる」

「ペレストロイカの成果のひとつに、人々が大幅に自由に外国に出かけられるようになったことがある」
フレンケルがハーバード大にいたときの数学科所属: ヨシフ・ベルンシュタイン、ラウル・ボット、ディック・グロス、ダヴィート・カズダン、弘中平祐、バリー・メイザー、ジョン・テート、シン=トゥン・ヤウなど
ボーリャ・フェイギンの友人のサーシャ・ベイリンソンはMITの教授になっていた。その講義にヴィクター・カッツが出ていた。
「ラングランズ・プログラムとは、要するにガロア群の表現と保型関数とのあいだに、ひとつの関係性を打ち立てようとすることである」
「自然数は集合を作るが、ベクトル空間は、もっと洗練された構造を作る。その構造のことを、数学者は圏(カテゴリー)と呼んでいる」
「グロタンディークが現代数学におよぼした影響は絶大で、これに関して彼に比肩する者はいないと言ってよい」

ウラディーミル・ドリンフェルドは17歳で初めての論文を発表し20歳でラングランズ・プログラムにおいて新天地を切り開た。しかし反ユダヤ主義によってモスクワではポストを得ることができなかった。彼は基本的にひとりで仕事をし、数学と物理の広い分野で驚くべき成果を上げ続けた。
現実の彼は、とても穏やかで親切だった。話しぶりはおっとりして、口にする言葉には、注意深く重みがつけられ、数学について彼が話すのを聞くと、明快に話すとは、こういうことかと思わされた。
ウラディーミル・ドリンフェルドもフィールス賞を受賞している。

「1970年代に物理学者たちは、電磁気理論の双対性を、いわゆる非可換ゲージ理論に拡張しようとしていた。ここでいう非可換ゲージ理論は、核力を記述する理論である」
「核力には「強い力」と「弱い力」という二種類の力がある。「強い力」は、陽子や中性子などの内部にクォークを閉じ込めている力であり、「弱い力」は、放射性崩壊のような現象を引き起こす力である」
「どんなゲージ理論でも、その中核はリー群であり、そのリー群のことを「ゲージ群」と呼ぶ。」

プリンストン高等研究所のウィッテンは高度に洗練された量子物理学の仕掛けを使って、純粋数学の驚くべき事実を発見したり、予想をしており、在命する最も偉大な理論物理学者のひとり。彼は物理学者として初めてフィールズ賞を受賞している。



「DARPAは百数十人のプログラムマネジャーを擁し、各マネジャーは大きな裁量権を持ち、強力なリーダーシップによってプロジェクトを運営していく」
数億ドルもの費用がかかる加速器が、国家の防衛に役立つかと尋ねられたフェルミ国立加速器研究所初代所長ロバート・ウィルソンの有名な答え。

NSFからDARPAに移籍することになったベン・マンには、ハイリスク/ハイリワードのプロジェクトを担当するだけのヴィジョンと勇気があったし、計画を実行に移すために必要なスタッフを探し出し、その人たちのアイディアを最大限に生かそうとする配慮もあった。
圧倒的な知的オーラを放つウィッテン。「彼が何か言うときは、つねにぎりぎりまで言葉を切り詰め、無駄がなく、正確で、水も漏らさぬ論理で組み立てられているように感じる。」
「ウィッテンは言うべきことを組み立てるために、何のためらいもなく言葉を切って、長い沈黙を置く。そんなときの彼は、しばしば目を閉じ、頭を前に傾ける」
 「素粒子には、フェルミ粒子とボース粒子という二つのタイプがある。フェルミ粒子(電子やクォークなど)は、物質を作り上げている粒子であり、ボース粒子(光子など)は、力を運ぶ粒子である」。ヒッグス粒子もボース粒子。

"Electric-Magnetic Duality And The Geometric Langlands Program" Kapustin and Witten(2007)


"GEOMETRIC ENDOSCOPY AND MIRROR SYMMETRY" Frenkel and Witten(2008)


"Gauge Theory and Langlands Duality" Frenkel(2009)


"Higgs Bundles, Past and Present" Nigel Hitchin(2012)(video) 

The Two-Body Problem
三島の『憂国』に影響を受けてフレンケルが作った映画なのだそうだ。

愛の数式の刺青に使われた数式

2015年11月17日火曜日

『アダム・スミスとその時代』

ニコラス・フィリップソンの『アダム・スミスとその時代』、訳者があとがきに書いているように、「スミスの思想を前面に出して、彼の生涯に一貫性のある説明を与えた評伝はほかにないのではないか」と思う。
エピクテトスの『提要』。アダム・スミスも読んでいたらしい。「こうした著作からスミスは、道徳の世界について考察方法や、その中で生きていこうとする際の問題を論じるのに使う言葉を手に入れた」
「長年にわたり『提要』は、聡明で育ちのいい男子生徒にとって有効な倫理学の入門書と見なされており、ストア主義倫理学の基礎となるテクストのひとつだった」
「何世代にもわたって生徒たちは、自由とは自制の術を覚えること、つまり人生において制御できる局面とできない局面とを区別するようになることだと教わってきた」
「エピクテトスは「身体、財産、評判、地位、一言でいうなら自身の行為と無関係なものについて、私たちに責任はない」と述べているが、彼の見解ではそれらはどうでもいいことであり、耐え忍ぶか忌み嫌うかすべき対象である」
「その一方で情念や意見、判断、「一言でいうならわれわれの行為に含まれるものは何であれ」制御可能なものであり、知能と理性の助けを借りて制御や統制ができる道徳的能力の源泉はここにある」
アダム・スミスはキケロの『義務論』も読んでいただろうと。
スミスは「悪液質〔衰弱〕の気があり、人好きのするたたずまいでなく、話し方は不器用であった。頻繁に上の空になるので、何も考えていないような印象を与え、愚鈍だとさえ思われた」
アダム・スミスに影響を与えた人はフランシス・ハチスンとデイヴィッド・ヒューム。それからケネー。
アダム・スミスは大学で修辞学や法学を教えていたんですね。
政治的安定と正義の感覚に密接に関係しているのは「国に豊かさや潤沢さをもたらす適切な手段、すなわちあらゆる種類の財貨の低価格である。というのも、低価格は豊かさの必然的結果であり、豊かさと低価格というこれらの用語は、ある意味で同義語であるからだ」とアダム・スミスは言い切った。
「国家の状態を最低の野蛮から最上の豊かさにまで引き上げるには、平和と多少の税と正義さえあればよい。そのほかは自然の成り行きでうまくいく」
大学でのアダム・スミスの講義は非常に人気があったそうだ。「彼は学生の勉強を指導すること、彼らの不安を解決すること、彼らの人生計画に合わせた助言をすることに大きな喜びを感じていた」。スミスは自分が行った教育によって一種のカルト的な存在になった。
アダム・スミスが用意した理論では、「道徳的な遭遇は双方向のものであり、あなたの行為に対し共感的感覚をもとうとする私の試みは、私の行為に対し共感的感覚をもとうとするあなたの試みとして報われるということが示されている」「道徳とは、報いある感情の取引が成立すると期待しつつ行われる、感情の交換の問題であるということが明らかになった。スミスは道徳がやりとりされる市場の様子を描いたのであり、もともと彼の分析の主眼は、この原理におかれていたのである」
アダム・スミスの『道徳感情論』のキーワードは「共感 sympathy」
近世ヨーロッパでは、名家の子息に付ける家庭教師を大学で漁るのが普通で、学者たちはたいていの場合に大学の職を辞し、庇護者の家庭に入った。シェルバーンとアダム・スミスの場合は異例で、シェルバーンは息子をグラスゴー大学に送り込むことにした。父親が望んだのは息子がスミスと一緒に暮らすことで、スミスは息子の教育について「何の縛りもなく保護と指導を全面的に」ゆだねられた。しかも最低でも100ポンドの報酬が支払われた。
スミスが彼のために立てた教育計画は恐るべきものだった。1月から5月までは大学でラテン語、ギリシア語、哲学、数学の講義を一日6時間受け、残りの2,3時間はスミスの個人授業に充てられた。夏季休暇はスミスと道徳哲学の古典と現代書(『法の精神〕など)を読みシムソンに数学の個人授業を受けた。
スミスが教えたシェルバーン伯爵の息子トマス・フィッツモーリスは一族代々の議席を引き継ぐ形で庶民院議員を務め、リネン産業に手を出して失敗すると、卒中によって生涯活動不能になってしまった。
フィッツモーリスには兄がいて、スミスが大学の用事でロンドンに出向いた際に同伴しているが、彼は後に第二代シェルバーン伯爵として首相になり、最も思慮深い政治家に数えられることになる。

スミスがバクルーの家庭教師に備えて注文した本はホメロスやウェルギリウス、アイスキュロスにエウリピデス、テオフラストス、キケロ、マルクス・アウレリウス、エピクテトスなど。
バクルーの家庭教師としてスミスに示された条件は破格の好待遇だった。スミスの教授としての収入が年150ポンドから200ポンドの間なのに対し、棒給500ポンドにその後は毎年300ポンドの終身年金がつく。スコットランド関税委員会の高収入ポストという公職の道も開かれる。スミスは即座に受諾。
スミスはバクルー公の家庭教師として大陸旅行に行った際に、パリでケネーらの重農学派の経済学者に、ジュネーブでかねてから敬愛していたヴォルテールに会っている。
スミスは道徳哲学の専門家だが、道徳哲学とは水田洋によれば「個人の行動を外から押さえ込むためのものではなくて、各個人が生存と幸福のために営む行為が、他人のそういう行動と矛盾せずに、社会的に平和共存が成り立つことが、どうすれば可能かをたずねる学問」のこと。スミスの見解は「各個人が利己的な行動をとっても社会的に秩序が成り立つのは「同感」の介在によるものであった。つまり、各個人の利己的な行動は、他人の共感が得られる限り、社会的に正当であると判断されるので、各個人は他人の同感が得られる程度にまで自己の行動や感情を抑制せざるをえない」
ただし、「同感」といっても、スミスが考えているのは、友人や知人の「同感」ではなく、「注意深い、事情に精通した公平な傍観者」の「同感」である。
パリから戻り、しばらくロンドンで過ごした後、アダム・スミスは生まれ故郷のカーコーディに引きこもり、『国富論』の執筆に集中する。「スミスの作業の中心は、グラスゴー大学時代に自身が生み出した経済学の原理について、ケネーとその弟子たちによるものと比べながら熟考し、持論の有効性を支える歴史上の膨大な実例を組み立て洗練させていくことだった、というのはまず間違いないようである」「ケネーが経済学を数学に基づいた精密な学問にできると考えたのに対し、スミスはヒューム的な見解から少しも離れようとはせず、哲学の理論がせいぜい訴えかけられるのは悟性に対してまでであって、読者から見てその理論が信用できるかどうかは、日常生活や歴史からもってきた例を使って哲学者が自分の原理を説明する、その技量にかかっていると考えた」

『国富論』執筆中にヒュームに宛てたスミスの手紙、「ここでの私の仕事は研究で、この一か月ばかりのあいだ、とても熱心に打ち込んでいます。私の楽しみは海辺を一人、長い時間をかけて散歩することです。私の時間の過ごし方について、どうこう言ってもらってもかまいません」「ですが私個人は、きわめて楽しく、心地よく、満足に感じています。ひょっとしたら、こんなことは自分の人生のなかで一度もなかったかもしれません」。そうした一人ぼっちの長い散歩が、部屋着のガウンを羽織ったまま、思索にふけりながらダンファームリンまで15マイルを歩く旅になったこともあり、ダンファームリンにある教会の鐘の音がしてようやく打ち切ることができた。

スミスにとって、ヨーロッパ大陸の豊かさの進歩がイングランドよりも遅れた根本原因は封建性だった。個人は誰しも「通常は公共の利益を推進しているつもりもなければ、どれほど推進しているのか分かっているわけでもない」「国外よりも国内の勤勉な働きを支えることを選ぶというのは、わが身の安定だけしか考えていないのであり、またその働きを、生産物の価値が最大になるように差し向けるのは、自分の儲けしか考えていないのである」それでも他の多くの場合と同じく、この場合においても、見えざる手に導かれて、自分の意図にはまったくなかった目的を推進することになる」

「若者の大部分はとても寛大なので、教師の教えたことを無視したり軽蔑したりしようとするどころか、教師が彼らの役に立とうという意思を真剣に示すかぎり、職分を果たすうえでかなりの間違いがあっても普通はそれを許そうとするものであり、場合によっては、ひどく重大な過失であっても、世間の目からは隠そうとすらする」

スミス「教育を受けた知的な人は、無知で愚かな人よりも必ず礼儀があり規律正しい。彼らは一人ひとりが、自分は個人として恥ずかしくない人間であり、法律上自分より地位の高い人々から敬意を受けるにふさわしいと自覚していて、そのため目上の人々に敬意を払う傾向もより強くなる」スミスによれば、民衆に教育を提供するうえで主権者が役に立ちうることといえば、せいぜい「一般の娯楽を頻繁で楽しめるものにすること、…絵画や詩や音楽や舞踏によって人々を楽しませ、気晴らしを与えようとする人々すべてに、完全な自由を与えること」しかない。というのも、これによって「必ずといっていいほど民衆の盲信や狂信の温床になる陰気な暗い気分を・・・容易に発散させてしまう」からだ。

「『国富論』も大元のところは、『道徳感情論』や執筆に利用した講義と同じように、同時代の人に向けて、自分と自分が相手にすべき人の人生を道徳・政治・知性の面からうまく御するようにと呼びかけたものであるからだ」
「『国富論』というのは為政者のために書いた本であって、学生のために書いたものではなかった」

スチュワートの描くスミスは、親切で物腰柔らかな、かわいらしい奇人であり、「たしかに世の中の通常のやりとりや、実務生活には適していない」
スミスは終始思索に耽って我を忘れることにかけては天才的で、「ふだん馴染みのないものや日常的な出来事には注意を払わないのがいつもの癖」になっている。
客人を迎えているときですら、「自分の研究に夢中になりがちで、ときどき唇の動きや表情、身振りから、一心不乱に総合的な推論をしているように見えた」。
面識のない者は、普通の会話に入ってくる能力がスミスにないことや「自分の考えを伝えようとすると講義形式になってしまう」癖に面食らう。

アダム・スミスに俄然親近感がわく。

ただし、スチュワートの描く浮世離れした思想家という人物像は、スミスが大学の運営において大変に優れた能力を持っていたこと、国家財政についての助言を閣僚たちが尊重したことや、謹厳実直な関税委員という職歴にも合わない。おそらく普段の社交生活や談話はスミスにはつまらなかったのだろうが、彼は温和で優しすぎたうえ、友人との人付き合いなしでもやっていける徹底した世捨て人というには、ほど遠かったのだろう。彼はすぐに人と親しくなることができたし、親しくなった者とは一生交友を続けた。
「ひょっとしたら、スミスの人生と思想において一番変わらない特徴とは、謙虚さだったのかもしれない」
『道徳感情論』も『国富論』も、人間学という、時間的・体力的に扱いきれなくなってしまった、より大きな計画の一部だった。

アダム・スミスとその時代』でも参照されているこの本はKindleで0円。
Life of Adam Smith (English Edition) John Rae