ところが二十歳の1826年の秋、突然、重い鬱病に陥ってしまった。
精神的危機からの快復の過程でミルはコールリッジ、ゲーテ、カーライルなどの諸作品を通じてロマン主義の思想に触れた。また、後に結婚するハリエット・テイラーと知り合った。
ミルは、ロマン主義やサン=シモン派の思想を通じて、私有財産制度を自明の前提としていた従来の立場を修正し、歴史相対主義に近づいていたのだが、『経済学原理』も、その線に沿って、単なる抽象理論の展開に終始することに満足せず、広く社会哲学への適用をもくろんだ野心作であった。
『ミル自伝』には、出版まもなく『経済学原理』が成功した理由が次のように説明されている。「最初から絶えず権威ある著書として引用言及されたが、それは本書が単なる抽象理論の書でなく、同時に応用面も扱って、経済学を一つだけ切り離されたものとしてでなく、より大きな全体の一環、他のすべての部門と密接にからみ合った社会哲学の一部門として取り扱い、したがって経済学のその固有の領域内での結論も、一定の条件づきでしか正しくない、それらは直接経済学自身の範囲内にはない諸原因からの干渉や反作用に制約される、したがって他の諸部門への考慮なしに経済学が実際的な指導理論の性格を持ち得る資格はないのだ、としたからである。事実、経済学はいまだかつて人類に、自分だけの見地から忠告を与えようなどと大それたことを実行したことはない。もっとも、経済学だけしか知らぬ者(したがって実は経済学をロクに知らぬ者)が、あえて世に忠言を与えようと分不相応な大望を起こしたためしはあり、その場合その連中は、本当に自分の持つ知識だけでそうするよりほかなかったのだが。」
以上のような問題意識は、一言でいえば、リカードからアダム・スミスへの回帰を意図したものと表現することができるだろう。
ミルはコントに倣って、社会科学を「特殊社会学」と「一般社会学」に分ける。前者は経済学のように一定の社会状態を前提にした上で、合理的な推論を進めていくことによって因果法則を引き出そうとする個別的な社会科学を指し、後者は前者で前提にされた社会状態そのものを研究対象にする学問を指す。
ミルは、特殊社会学としての経済学では演繹法による抽象理論の定式化を積極的に是認する一方で、複雑な社会現象の相互連関を取り扱う一般社会学では、演繹法の限界を指摘し、むしろまず歴史的事実からの帰納によって経験的法則を引き出したあと、人間性の原理に基づく演繹法によって検証する方法を提唱した。
根井雅弘『経済学の歴史』第四章 ジョン・スチュアート・ミルから引用しました。
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