『合理的市場という神話』、おもしろくなってきた。
「マタイによる福音書が説く『タラントのたとえ』では、主人から預かったお金をリスクをとって上手に増やした二人のしもべはほうびを与えられるが、お金をなくさないように土の中に埋めておいたしもべは厳しい罰を受ける。その後、16世紀、17世紀には、教会法学者が、金融業者が受け取る利息はリスクをとった報酬であるため、高利貸しを戒める聖書の教えには反しないと論じて、資本主義が台頭する道を開いた」
「同僚の経済学者の中には、フリードマンの政策論に愕然とした者もいたことは確かである。フランコ・モディリアーニは「フリードマンを突き動かしているのは、政府がすることは何でも悪いという思想だ」と冷笑していた」
「シカゴ大学の大勢の同僚たちと違って、ファーマには自由市場を支持するイデオロギー的なバイアスがまったくなかった。彼の政治姿勢は昔も今もほとんど謎である。しかし、彼は根っからの研究者であり、自分やシカゴ大学のほかの経済学者が行っていた研究の論理的な結論を導き出したいと思っていた」
「1930年代と40年代を乗り越えて成功した投資家は、自分が株式を買った会社の根源的な価値に最新の注意を払っていた。その一人がケインズである。『私の目的は、資産価値と本源的な収益力について満足できて、市場価格がそれに照らして割安に感じられる証券を買うことである』(ケインズ)」
ベンジャミン・グレアムは56年に資産運用会社をたたみ、南カリフォルニアに移った。自分の投資手法がもはや通用しなくなったことを認めた。「証券アナリストも、投資ファンドも市場平均に打ち勝つことは期待できない。なぜなら、重要な意味で証券アナリストも投資ファンドこそが市場であるからだ」
「アナリストの仕事の本質は、銘柄選定によってめざましい運用成績をあげることにあるのではない。むしろ、多くの銘柄について、既知の事実と将来に関する妥当な推定に基づく相対的な価値が適正に反映された価格水準をつねに決定することにある」(グレアム)
1967年にウェリントン・マネジメント社はボストンの投資会社と合併したが73年と74年の弱気相場で意見が対立、ジャック・ボーグルは社長を解任される。ウェリントン・ファンドとウィンザー・ファンドはミューチュアル・ファンドだったため、ファンドの意思決定構造は運用会社から独立したまま。
二つのファンドの取締役はボーグルとその前任者によって任命されており、ボーグルの解任は青天の霹靂だった。ボーグルはウェリントン・マネージメントを新しい経営者から逆買収することを提案。ひるんだ取締役たちは妥協策を考え出す。
二つのファンドは部分的な独立を宣言し、資産運用・販売はウェリントン・マネジメントに残すが、「運営管理」は新しい会社が行い、この新会社をナポレオン戦争時のネルソン提督の旗艦にちなんでバンガード社と命名する。当時の運営管理とは株主に年次報告書を送るくらいだったがボーグル
を抜け道を用意。
一つは、ファンドの株式を販売手数料を取らずに投資家と直接取引すれば「販売」とはみなされないこと、もう一つは、パッシブ型ミューチュアル・ファンドを運用しても資金運用とはみなされないことだった。「これは人間が知る最も巧妙な便宜主義的行動の一つであった」(ボーグル)
「銘柄選択はきわめて重要であるという強い信念は、変人が多いファイナンス学者にはない静かな自信に満ちた態度やカリスマ性ともあいまって、ローゼンバーグを投資業界でカルト集団の指導者であるかのような地位に押し上げた」
ロジャー・イボットソンはブラックにCBOEの会員権を買ってオプションで儲けようと誘って断られている。イボットソンはブラック=ショールズ式を使って、オプションで大儲けするが、ブラックがボラティリティ評価サービスを始めて価格が適正に形成されだすと儲からなくなった。
「自己成就的な予言」という言葉を作り出したのはロバート・K・マートン。その息子のロバート・C・マートンはブラックとショールズが公式を完成させた後に、数学的によりエレガントな別の方法で公式を再導出した。数理ファイナンス理論の未来の形を定めたのはマートンの公式だった。
マートンは、資金を借り入れ、その資金で株式を買うことでオプションの全期間にわたりノーコストでポジションを調整できると仮定した場合には、その株式のオプションとまったく同じリターン特性を持つポートフォリオを組み立てられることを、”伊藤の補題”を使って立証した。
ブラックはマートンの手法を完全に受け入れたわけではない。現実の市場での売買は連続的でも円滑でもないことをブラックは懸念していた。しかしMBS、金利・通貨スワップなど、あらゆる種類の複雑な金融商品の評価モデルがマートンの手法を使って構築され、世界中の金融市場を変えていった。
ステファン・ロスはCaltechで物理、ハーバードでケネス・アローの下で経済学を学んだ。ペンシルベニア大でブラックのセミナーを聞き、アローの「状態証券」の概念に一部は基づいている、より実際的な新しいオプション評価式を編み出した。
「ロスは物理学から転向した元マルクス主義者で、物理学を捨てたのは、一つにはベトナム戦争に強く反対していて、自分の研究が軍事目的に使われるのを見たくなかったからだった。」
「そんなロスが新しい金融商品を無限に組成する自由を主張するようになったのは、そうすることで完全競争に近い経済世界が実現される、と均衡理論が説いたからである」
0 件のコメント:
コメントを投稿