2010年4月10日土曜日

投稿用論文、川上弘美、ドストエフスキー、ジョサ

久しぶりにいい天気だ。近所の公園の桜も満開。
俺は朝から、投稿用論文を書く。
途中、昼飯の惣菜の調達のついでに古本屋に寄って川上弘美の『センセイの鞄』、『溺レる』、ドストエフスキーの『罪と罰』を買う。『センセイの鞄』は谷崎潤一郎賞だ。川上は芥川賞、ドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞、伊藤整文学賞、女流文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞している。すごいね。一人でこれだけの賞を取れるんだ。世間での評価は高いんだろうな。文庫の裏表紙に顔写真が載っている。美人ということになるんだろうな。
バルガス・ジョサの『嘘から出たまこと』の最初のエッセイ「嘘から出たまこと」を読む。素晴らしい。この部分だけでも買う価値がある。小説、フィクションの本質を見事に捉えて提示している。
「(小説は、)単に嘘をつくだけではなく、正体を隠すこと、仮面をかぶることによってのみ表現できる興味深い真実を語るのである。...人間は自分の運命に満足できないもので、ほとんど全員が ― 金持ちも貧乏人も、天才も凡人も、有名人も無名人も ― 今と違う生活に憧れる。そんな欲求を ― イカサマな形で ― 静めるためにフィクションは生まれた。すなわち、誰もが求めてやまぬ理想の生活を提供するために書かれ、読まれるのがフィクションである。小説の根底には、いつも悪あがきが煮えたぎり、欲求不満が脈を打つ。」
「現実生活の不満は、文学によって時に静められ、時に煽り立てられるが、決して真の意味で改善されることはない。我々の持つ空想癖はまさに悪魔の施し物かもしれない。今の自分と理想の自分、持っているものと望むものの溝を常に広げているのだから。
 しかし我々は、抜け目ない想像力のおかげで、限りある現実と際限ない欲望との乖離を和らげる妙薬、すなわちフィクションを備えている。フィクションによって我々は、自分を失うことなく自分を乗り越え、他人になりきることができる。フィクションのなかに溶け出して我々は多重人格者となり、自分以外の多くの人生、真実の枠に囚われていれば不可能な多くの人生を、歴史の牢獄から抜け出すことなく試すことができる。」
「嘘から出たまこと」の後は、ジョサによる名作の書評になっている。一流の作家による一流の作品の書評なので面白くないわけが無い。しばらくは『嘘から出たまこと』のおかげで幸せな時間をすごすことができそうである。


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