2010年10月23日土曜日

経済学とはなにか (根井雅弘)

「自由放任主義の下では大恐慌のように大量失業が発生する可能性があるので、総需要管理を慎重に行い経済を完全雇用に近い状態へ誘導、完全雇用が実現すれば市場メカ二ズムに信頼を置く新古典派の復活、というサミュエルソンの新古典派総合は1970年代前半までは、経済学界の主流派だった
実際は、「総合」というよりは、両者が並列している妥協の産物であった。ケインズ経済学が中心のマクロ経済学と、一般均衡理論が中心のミクロ経済学が、両者をどのように連結するべきかという問題をよそに個々バラバラに研究・教育されていた
アメリカのケインジアンは、歴代のアメリカ大統領に雇用維持のための財政赤字は無害だと説いて、冷戦下の「軍産複合体」に利用されやすい状況をつくってしまったのではないか。本当はケインズ革命が成就したあとに「雇用の内容」を問う方向へ経済学者の関心が向かうべきであった
J・ロビンソンは「不確実性」の下での意思決定を問題の中心においたことが『一般理論』の核心であると解釈していたので、「均衡」分析によって『一般理論』をモデル化したIS/LM(ヒックスの初期の仕事)を決して認めなかった
AからBへの距離はBからAへの距離と同じである。しかし時間においては、今日から明日への隔たりは24時間であるのに、今日から昨日への隔たりは、詩人たちがしばしば注意してきたように、無限であるそれゆえ、時間に対し空間的比喩を適用すると、それはきわめて扱い難いナイフのようなもので、均衡概念はそれを振り回す人の腕をしばしば傷つけるのである(ジョーン・ロビンソン『資本理論とケインズ経済学』)
1960年代後半からアメリカがベトナム戦争の泥沼に陥り、軍需を含めた総需要が過大になるにつれて、インフレ問題が論争の的になってきた。サムエルソンやソローなどのアメリカのケインジアンはフィリップス曲線をできるだけ内側にシフトさせる所得政策を提言したが、インフレ期待が厄介に
長期的にはフィリップス曲線は自然失業率を通る垂直線となる、という「自然失業率仮説」の登場によってフィリップス曲線の信頼度が著しく低下したことは間違いない。それは同時に、主流派であった新古典派総合が次第に影響力を失っていく過程でもあった
ロバート・ルーカスやトーマス・サージェントたちは、合理的期待形成仮説をもって、人々が政策の効果に関して事前に合理的期待を形成するならば、短期的にも、政策の効果はないと主張して、一躍、学会の注目を浴びるようになった
ルーカスの仕事の核心は、マクロ経済学をミクロの経済主体の最適化行動によって基礎づける方法論を確立したこと。現代の経済学界は、一部の例外を除いて、ルーカスの方法論を受容しているといってよいだろう
ルーカスは、『非自発的失業』という用語自体を無用なものと考えている。『失業者』とは将来もっと条件のよい職に就くために『職探し』をしている人たちと捉えられる
わが国の学界でも少数派になったケインジアンの吉川洋は、ルーカスのあとに登場した『リアル・ビジネス・サイクル理論』によって、新古典派は「終着駅」に着いたと解釈している
マンキューらのニューケインジアンは新古典派総合と同じ欠陥を持っており、主流派の一角に食い込んではいるものの、『長期的雇用理論』としてのケインズ経済学の再生に関心を持っている人たちの問題意識とはかけ離れていると判断せざるを得ない
社会研究の知られることの少ない、知ることの困難な領域に深く分け入る際には、自らの仕事を注意深く進め、その限界を十分意識して進めるならば、すばらしい貢献を成し遂げることであろう(A・マーシャル『経済学原理』)
同時期に複数の学派が存在し、お互いに反目している場合、「対話」を通じて自分たちに足りないものを発見する方向に行けば生産的なものが生み出される可能性があるが、単にお互いが「反目」しあっているだけなら貴重な時間の無駄になる恐れがある」

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